とっちら

好きなことを取っ散らかします。

2018年4月

 

私をくいとめて

私をくいとめて

 

 再読。このべたつかない感じが好きでちょこちょこ再読している。

 

ふたつのしるし (幻冬舎文庫)

ふたつのしるし (幻冬舎文庫)

 

 これも再読。元気がなかったのでひたすら小説を読んでいた……。

 

HER(Feelコミックス)

HER(Feelコミックス)

 

 三鷹のマルシェ帰りによった本屋で購入。女〜〜〜〜!

 

週末、森で (幻冬舎文庫)

週末、森で (幻冬舎文庫)

 

 三鷹のマルシェで購入。『るきさん』のリアリティが増した現代版……というふうに感じた。

 

問いかける法哲学

問いかける法哲学

 

 お世話になった先生が一部書いているので持ってたのを、超超久しぶりに引っ張り出してきて読んだ。(詳しくはこのエントリで)

 

わたしらしく働く!

わたしらしく働く!

 

これも三鷹のマルシェで購入。文章の軽さが好きな感じだった。数十年の日記みたいな雰囲気があってよかった。

 

・4月はほとんど働いてなくて、いろいろ考える時間がたくさんあった。決めたかった複数の物事は決まらないまま。このまま困っててもどうしようもないなと思って、一旦実家に帰って自動車の免許とることにしよ、となった。

・地元にいると気軽に人と会いづらくて元気がなくなるので、みなさん各種通話などしましょう、よろしくお願いします!

 目が覚めると早朝だった。わたしは真っ白くてふかふかなベッドで眠っていたらしい。知らない部屋。壁も白くて清潔だが、病院みたいな無愛想さはひとつも感じられない。常に誰かが生活している、きちんと呼吸をしている部屋だと思った。

 久しぶりにこんなふうに朝日を浴びた。今絵を描くなら、日光は白か黄色で塗るだろう。こんこんと眠る日々が続いていて、少し西へ傾いた太陽しか見ていなかったので、その明るさに驚く。幼稚園のときに太陽を黄色で塗っていた子たちは、みんな朝に強かったのかもしれない。

 「起きましたか」と声をかけられる。知らない人。白いパジャマを着ている。ペットボトルの水を渡される。未開封だった。飲む。飲みなれない味がしたのでおそらく硬水。

 昨日はいったいどうしていたんだっけ。記憶がない。ここはほんとに現世なんだろうか。やたら白いし、空気が綺麗だ。酸素が多い気がする。

 「昨日はよく眠れましたか」はい。「おなかはすいてませんか」すいてないみたいです。「本当に?」もう長いことおなかがすかないんです。「じゃあ、胃は空いてるんでしょう」そうですね、胃は空いてると思います。「おかゆとホットケーキだったら、どっちが好きですか?」ホットケーキが。「じゃあ、そうしましょう」

 米の形が崩れているのが嫌で、粥はあまり好きじゃないんだけど、こういうとき、何日もろくに食べてなさそうなときって、粥をすすめるもんじゃないんだろうか。よくわからないけど大人しく待つ。

 その人は紺のエプロンをする。白い冷蔵庫から、白いボウルに、卵と牛乳を移動させる。泡立て器で混ぜる。白い粉を計って入れる。マヨネーズを、えっ。

 「入れるとね、ふわっとするらしいんですよ」伝聞ですか?「そうですね」実験台ですか?「そうなってくれますか?」

 フライパンを熱する。白いふきんで冷ます。もう一度コンロに戻して、生地を流し入れる。ちょっと待って、裏返して、また焼く。甘くてあたたかい匂いがする。

 「1枚焼けたらね、すぐ食べていいですからね」はあ、ありがとうございます。

 匂いを嗅ぎながらベッドに埋もれて目を閉じる。土曜日の遅い朝を思い出す。昔母が焼いてくれたっけな。丸くて大きいの。両手で持って、かじった。もうホットケーキは自分で焼くしかないと思ってた。

 「焼けましたよ」

 ベッドから這い出す。自分も同じ白いパジャマを着ていた。席に着く。他人が自分のために用意してくれた席。ナイフもフォークも使わずに両手で掴む。かじる。さくり。ふわり。甘い。顔を湿らす蒸気。白い。その向こうで微笑む人。

 

 目が覚める。日はもう高い。「起きましたか」と自分に言う。いつも通りの部屋。なぜか満たされた気持ちでいる。おなかがすいた。ホットケーキの材料を買いに出かける。

我々はどこまで考えればよいのか──滝川裕英編『問いかける法哲学』

最近、なにかを読んで考える、みたいなことが著しく少なくなっていて、考え方を忘れてしまったのでは……と思い、この本を引っ張り出してきて読んだ。

問いかける法哲学

問いかける法哲学

 

当書は、法哲学を学ぶうえで「いきなり実践」的アプローチをとっている。これは、賛否が分かれる法哲学の問いにいきなり取り組み、その中で法哲学の基礎的な概念や考え方がどのように役立つか確認しつつ、少しずつ身につけていくというやり方である。

そして、当書は法哲学の演習書であり、副読本であり、入門書であると位置付けられている。想定読者は法学部生や法科大学院生とされているけど、ちょこちょこ調べつつ読めばそれ以外の人でもそれほど問題なく読めると思う(理解の深さは異なるかもしれないが)。

わたしが今回読んだのは「女性専用車両男性差別か?」の項だったけど、他にも「自分の臓器を売ることは許されるべきか?」「犯罪者を薬物で改善してよいか?」「年金は世代間の助け合いであるべきか?」「国家は廃止すべきか?」など目次だけでもおもしろいのでぜひここから見てみてください。

 

「06 女性専用車両男性差別か?」は、導入で筆者の経験の話、そして「差別」の定義をしたのちに、法律家が差別を取扱う際の視点を明らかにする→次に、差別に関わる法哲学上の論点とその変化などを説明する→最後に、これらを踏まえて、女性専用車両男性差別であるかを考えるための道筋を示す、という流れになっている。

これが講義みたいですごくわかりやすかった。わたしはまずテーマだけを見て自分なりに考え(もちろん法哲学的視点などひとつもない)、それをメモし、法哲学上の論点まで読んでもう一度考えてみた。そのあとに残りの部分を読んでみる、というやり方で読んで、講義を再現するようなつもりでやった(ら3時間が経っていた)。

 

この章では、「こういう論じ方が可能だよね」という道筋を示すものの、結論は出していない。むしろ考慮すべき要素がたくさん見つかるようになってどうしたものか……となってしまった。

そこで思ったのが、我々はどこまで考えるべきなのか?ということ。つまりこの問題って、法哲学的視点……というか、法律家から考えてもこれだけ押さえるべきところがある問題なわけだ。そのような問題を、我々一般人はどのように、どこまで考えればいいのだろうか?

いろいろ考えてみたけど、わたしたち生活者は、こういう視点があるということも学んだり学ばなかったりしたうえで、こう思うんですけどどうですか、って話を、ときに専門家を交えてしていくことしかできないんじゃないかと思った。だって法哲学だけでこれなんだから、様々な専門家の視点を広く得ようとするのは、現実的に考えてかなり難しいと思う。そりゃ学んだほうが、より確からしいものを自分の中に取り入れられるという点で、得だなあとは思うけど。

なんか前にも似たような結論に達したことがある気がするんだけど、専門家への敬意をもって、わたしたちはわたしたちなりに考えて、こう思うんですけどどうですかねって、問われて問うての繰り返しをするのがよいのかな〜って思いました。

 

専門家が専門家の目線で見てくれるだろう、我々は生活者なのだから生活者の目線でよいのではないか、それが役割ではないのか、もちろん学習する生活者というのがよいんでしょうが……と思った話でした。

 

 

 以下、関連ツイート

2018年3月

 3月のまとめです。

ひとり空間の都市論 (ちくま新書)

ひとり空間の都市論 (ちくま新書)

 

飛ばし読みした。わたしが興味あるのって都市じゃなくて都市に興味がある人だなと気づいた。

 

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

生きがいについて (神谷美恵子コレクション)

 

 つらかった日に泣きながら友人と話していたら友人がその場で買って贈ってくれた。読み途中。

 

るきさん (ちくま文庫)

るきさん (ちくま文庫)

 

 友人が貸してくれた、めちゃくちゃいい……。るきさんの自由さは周りをも自由にする自由さだと思った。いいなー……。友人えっちゃんとの関係性も非常によくて、ふらっとお互いに行き来できる関係。こういう友人のいる生活は幸福だなと思う。氷室冴子さんによる解説も、短いながら『るきさん』の世界をすごくよく表していていいなあと思いました。自分でも買おうかな。

 

暇と退屈の倫理学 増補新版 (homo Viator)
 

 買って読み進めている。國分先生、一人称俺なんですね……(よい)。

 

大丈夫、働けます。

大丈夫、働けます。

 

 タイムラインで何度か見ていて気になっていたので。バイトの面接を受けた帰りに、書店でぱらぱら見たら思っていたよりグッときてしまい、買った。大丈夫になりたい。

 

でも、ふりかえれば甘ったるく (PAPER PAPER)

でも、ふりかえれば甘ったるく (PAPER PAPER)

 

 知っている人が2名寄稿していたので買った、横書きでびっくりした。思っていたのとはちょっと違っていたけど、新しく好きだなと思う文章を書く人を見つけられてよかった。まだ読み途中。

 

緑の庭で寝ころんで

緑の庭で寝ころんで

 

 書評部分以外読み終えた。この著者の音楽に関する表現がほんとうに好きなんだけど、同じように感じている読者がいるんだなーと思った。この本に関連したnoteも書いた。

note.mu

 

・3月は、読みかけの本を読み終えたり、新しく本を仕入れたりした。退屈になることがこわかったので、それに備えた本選びをしてみた。結果わりと退屈にならずにすんだので正解だった。

・暇つぶしのひとつとして、つくりばなしというカテゴリで事実ではない話を書き始めた。これについて、小説を書いている友人が面白いと言ってくれたのがめちゃくちゃ嬉しかった。話を作るという形での感情の昇華があるんだなーとわかったので今後もやってみたい。

・note使ってる人と話して、あー使ってみたいなと思ったので、久しぶりにnoteを使い始めた。日記を書いたりしている

・先月「3月中にバイト決めたい」などと言っていたのですが決まりませんでした、まあのんびりやる。今年度いっぱいでケリつけようと思ってたことは全部終わらなかったんだけど仕方ないですね。持ち越すぞ。

記憶の濃度

記憶の濃度の話をしたい。

 

ひどく調子の悪かったとき、わたしは文房具の陳列棚の前で立ち尽くしたことがある。何を買うかもあらかた決まっていたのに、そしてそのペンが並んでいる棚の前に立ったのに、「たくさん並んでいるものの中から特定のペンを選ぶ」という行為ができず、急に「わたしはここで何をすればいいんだっけ」「それはどうやったら達成できるんだっけ」と、ぽかーんとしてしまったのであった。そのあと、こんな簡単なことができなくなっていることにぞっとして、帰宅してから少し泣いた。

調子が悪かったときに起きた様々な不具合の記憶は強烈で、なかなか忘れられず、同じようなことをするときにはきまって緊張が訪れていた。今でこそ落ち着いたものの、公共交通機関を利用するときにも不安だったし、人と簡単な約束をかわすのにも、守れるかわからず胃が痛くなった。

 

忘れずにいたいのは、それら嫌な記憶の濃度は下げられるということだ。

ある行為を何度も行えば、分母が増える。いくら強烈であったとしても、一度の失敗は1でしかないので、どんどん確率的には小さくなっていく。やり続けることで、失敗した思い出の濃度が下がっていく。そういう話がカウンセリングの中でなされた。

濃度が高いうちは怖いけど、それに負けず、あるいはときには負けつつも、繰り返して嫌な記憶を薄めていく。そういう作業が必要なんだと思った。

 

嫌なこと以外についてもこの濃度の話はできてしまうから、わたしはできる限り多くの1回を書き残したいと思っている。また次にその行為をすることをためらわないためにも。

質問

 こんな質問をするのは、きっと応えてくれると思える人にだけなんだけど。あなたはどんな時間が好きですか。

 

 わたしが一番好きな時間はですね、たぶん、誰かと一緒に歩いている時間です。それはスカイツリーに向かう道であったり、スーパーに向かう道であったり、喫茶店に向かう道であったりする。

 

  とりわけ好きなのが、帰り道なんです。1対1でも、複数人でもいいんですけど、ひととおり会が盛り上がって、そのあと。一番近くの駅に着くまでの時間。解散が始まって、終わるまでの時間です。なんだか名残惜しくてゆっくり歩いてしまったり、はたまた寂しさを予期して逃げるように足をはやめたり(それはむしろ向かっていることになるんですが)。その時間がすごくすごく愛しいんです。早くて夕暮れ時、遅ければ夜中。

 

 帰ってから、その幸福感がよみがえって、思わず泣いてしまったこともあります。ああ、楽しかったな、と、もっと一緒にいたいな、が混じり合う時間。なんだか奇妙な間があいてしまうこともある時間。行きよりもたいてい、少し親密さの上がった、横並びになる時間。なんなら会の本体よりも、この時間のほうが楽しみかもしれません。

 

 そのあとに寂しさが待っているからといって、そのときの楽しさは消えないんですよね。それら両方をふくむ、帰り道がすごく好きです。これを読んでくれたあなたとも一緒に歩きたい。会いましょう。そして帰りましょう、それぞれの住処へ。

 

 あなたはどんな時間が好きですか。

15と最後を待つ

好きな人はあんまりツイートをしない。数日に1回、読点すら入る余地のないごく短いツイートをするだけ。そのかわりに、毎月15日と最終日に、長めのブログを更新する。たぶん3000字はある。寝る前に電気を消して、ベッドに入り、スマートフォンの光を弱めて好きな人のブログを読む。それがわたしの趣味だ。

 

その人のブログは、ほんとにただの日記。映画を観たらしい日のところには、その映画の感想。なんでもない日のところには、スーパーで買い物をしたとか、そういうことが書いてある。たくさん寝た、とかの日もある。インターネットで日記を書いているわりに、地域のスーパーとか本屋に行っているところが好きだ。たまにバッティングセンターにも行っているみたい。わたしは運動音痴で、自主的に運動をしようなんて思ったことないんだけど、その人の文章が気持ちよさそうなので、バッティングセンターなら行ってみたいかも、と思っている。バッティングセンターでバットを振るのは運動に入りますか?

 

好きな人には会ったことがない。性別も知らない。人格に期待しているわけでもない。ただ、わたしはその人の生活の一部を共有している。


日記の内容は嘘かもしれない。よく考えたら妙に端整すぎる気もする。でも、その人が、日記のようなものを書いているということは事実である。そしてそれを書くことが生活の一部になっていることも、事実である。そして、その人の生活の一部を見ることが、わたしの生活の一部になっているので、ある。


あ、AIとかだったらどうしよう。わたしの好きな人はAIになるのかな。まあそれでもいいか。なんかだんだんAIな気がしてきた。思えば思うほどAI。会いたいわけじゃないからなにも困らない。わたしの生活の一部をとりあげないでくれればそれでいい。ずっと日記を書き続けてほしい。あなたの生成する文章が好きです。