とっちら

好きなことを取っ散らかします。

早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』読みました

 若干の今更感はあるのですが、『知ろうとすること。』を読みました。 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

うん、おもしろかった。もちろん放射線等についての知識も非常にわかりやすかったんだけど、それよりも物事に対する姿勢みたいなものが印象に残ったかもしれない。対談形式なのでふむふむ〜とあっという間に読めてしまった。

で、早速本筋とは違う話をするんだけど。いや、ほんとはそんなに本筋でないとも思ってないんだけど。わたしが気になったのは、早野さんのあとがきにあったこの文章。

ですから、震災以降の日々は、僕にとっては、あらゆるものが新鮮でした。最初は、コミュニケーションにしても非常に下手でした。四苦八苦しながら、だんだん、社会に対して語るというのはどういうことなのかが、わかっていきました。

ここの、「社会に対して語る」という部分が心にとまった。早野さんはそもそも放射線などを専門にしている人じゃなくて、エキゾチック原子というものが専門の物理学の人なんだけど、今回、色々なことをいわゆる一般の人に向けて語るときに苦労したと。

科学は限定的に正しいものであり、いつか書き換えられるかもしれないものである、というのは科学の世界では当然な考え方。だからこそ「この場合はこう」と限定した言い方をするんだけど、それが一般の人にはなかなかわかってもらえない。

 

科学の分野に限らず、「社会に対して語る」ときには、こういった一般との断絶みたいなものを乗り越えなければならないのだと思う。そのために、早野さんは「科学的には必要のない機械」であるベビースキャンという機械を稼働させた。

この機械を、糸井さんは「不安を解消してもらうためのコミュニケーションツール」と呼ぶ。社会に対して事実を伝えようとするとき、もしかしたらそのような存在が必須なんじゃないか。事実がどーんと真ん中にあって、その端をじゅわじゅわと溶かして広げ、まわりに浸透させるもの。

 

最近すごく思うけど、事実だけで人を動かすのは難しい。わかっていても不安なことがあるし、わかっていてもやらないことがある。それって「わかった!」ではない状態だからだと思うんだけど、そのびっくりマークを付けられるのは事実そのものではない気がしている。

でもやっぱり、糸井さんも言うように「なによりも、なにをするにも起点になるのは『事実』」なのだとも思う。今はどれが事実なのかを見つけ出すのも容易ではないけれど、できる限りそこから始めたい。

 

糸井さんはもうひとつのあとがきで、こんなことを書いていた。

百歩ゆずって、脅かされるほどの事実があった場合でも、そこからどうやって希望を見いだしていくのか、いっしょに考えるのが伝える人の役目だと思うのです。

誰に伝えるのか、というのもあると思う。特定の誰かなのか、それとも社会なのか。それともそれとも。わたしはやっぱり、何かを伝えるのなら、たくさんの人の前でピシッと立って言えるようなことを伝えたいなあと思いました。

 

「我々の体には、138億年前の水素が入ってる」とかって話もあっておもしろかったので、 よければ読んでみてほしい。500円以下だし。

よい脱線をすることも能力のひとつだよなあ。