とっちら

好きなことを取っ散らかします。

第三次予選を前にして(恩田陸『蜜蜂と遠雷』中間感想)

カザマジンがやるのは生まれる前の音楽、楽譜になる前の音楽、作曲家の頭の中で書き出される前の音楽、世界にもとから存在していた音楽、純度が高い、自分の中にあるもの、知っているものを思い出させる音楽。

なぜかテーブルクロス引きを思い出す。彼がテーブルクロスを引くと、その上にのっていた食器たちが踊りだす。奇術、魔法、手品。彼の演奏への熱狂や嫌悪はそういうものではなかろうか。知っているものが形を変えてあらわれること、しかもその姿がより「本物」らしく見えてしまうこと。

 

それはマサルと似ているが、マサルの場合は主体としての自分が確実にある。きっと「マサルの(曲名)」にしかなりえない。カザマジンはピアノを使って音楽を誘い出す、解き放つ、本来の姿を引き出す。マサルは熱、太陽。カザマジンは透明。

 

エイデンアヤは? エイデンアヤのイメージは終始水だ。彼女は彼女のまま姿を変える。それはきっと「エイデンアヤの(曲名)」ではない。エイデンアヤは見守る、あやつる、導く?

マサルほどの主張はなく、しかしどうにでも姿を変えられるという個性は彼女のものだ。器。あるようなないような。全てを受け止める、そして流れ出す。

 

明石、彼は大人だ。あふれるものがあっても大人だ。見ている世界が全然違う。とびぬけた特別ではないがじゅうぶんに特別なひとり、そして、特別ではないということは、素晴らしくないということではないと教えてくれるひとり。

 

恩田陸蜜蜂と遠雷』を読んでいる。第三次予選が始まる。すべて読み終わったら、イメージの共有について考えてみたい。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷