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とっちら

好きなことを取っ散らかします。

「夢」のララランド

感想だけ書いてだいぶ満足したと思っていたんだけど、どうも整理しきれなかったので追加で書くことにした。これは作品のわたしなりの解釈なので、そのためにネタバレに次ぐネタバレをしますので、よろしくお願いします。
 
ええと、まず自分の立場から話し始めたほうがいいと思うんですが、わたしはそもそもそんなに映画に詳しくないし、ミュージカルっぽいのはgleeしか見たことがない。だから、ぽーんとララランドを見たことになるので、オマージュ部分はひとつもわからないし、映画史的な位置づけもわからない。ついでにセッションも見ていないので、彼についての前情報も一切ない。
 
わりとそういう真っ白な状態で見た結果、物語の筋がありきたりに思えるし、画面の華やかさや撮影技術、音楽の入れどころはすごいんだろうなと思うけど、劇場を出てみれば、ラストのセブズに入ってからは非常に好みだったが……という感じでした。ミアの行動も不可解だったりした。で、キャラクターの動きも物語にとって都合が良すぎるのでは?と思ったりしたんだけど、じゃあこの映画を通して一体何が行われていたのか?どういう文脈を持てばより楽しめたのか?というのが知りたかったので、考えた。自分が物語に入り込めなかったのが悔しかったというのもある。
 
そこで考えたのが、この映画を4種類の「夢」から見てみるということだ。ここでは、①セブ・ミアそれぞれの夢、②セブとミア2人の夢、③セブとミアの夢見心地、④この映画作品「LA・LA・LAND」という夢、という3つに分けて考えてみる。(映画館にパンフレットがなく手に入れてないので、本来の意図とは全然違うのかもしれない。だから、わたしが基本的には映画だけを見て、こういうとらえ方をしたらおもしろく感じたよ、という程度の話として読んでほしい。)
 
まず、①セブとミアの夢。セブは自分の店を持ちジャズを復活させる、ミアは女優として成功する、というのが個人の夢だろう。これは2人が出会う前からそれぞれが抱いていた、将来の希望という意味の夢。
 
その後、セブとミアは高速道路での嫌な出会い・ジャズバーでの再会・パーティー(?)での再再会を経て近づいていく。それぞれの夢を知り、惹かれ合う。わたしはこのあたりから、②「ともに夢を叶えて隣で幸せになる」というセブとミアの共通の夢(願望)ができたことになっているのではないか?と考えている。
 
セブとミアの2人によって作られたもうひとつの夢が、③2人の恋の「夢みたいな幸せ」、夢見心地。現実的にはちょっとありえないんじゃない?みたいなシーンは、だいたいこの夢見心地に起因する、あるいは夢見心地の状態を実際に映像化してみました、みたいなことだと思ってる。
 
そういえば、観てから知ったのだけど、la la landという言葉は監督の造語ではなくて、陶酔、恍惚、我を忘れた境地、現実離れした世界、酩酊状態、カリフォルニア・ロサンゼルスなどの意味をもつ俗語なんですってね。
 
で、ちょっとストーリーに話を戻すと、ミアが家族と電話してるのを聞いたのもあって、セブは現実的な仕事を選んでいく。ミアはそれを夢のための資金集めだと思っていたが、セブはだんだんその仕事をすることでミアとの生活を守るべきだ、みたいな考えになっていったっぽくて、言い争いになってしまう。このあたりで、②について二者間の解釈違いが生まれてきたというか……。セブは多分①以上に二人で得る幸せを求めるようになっていて(それは①を諦める言い訳かもしれないが)、一方ミアは②そのまんま、①あっての②だと思っている。もともとお互い夢を追っているのがきっかけで恋愛に発展したっていうところもあるんじゃないか。
 
で、その後ミアは一人芝居に失敗したと感じ、セブとの仲もよくないまま、①を諦めて帰郷する。しかしセブの電話にミア宛の連絡が来て、セブはミアに①を取り戻させるようにする。オーディションが終わり、以前③夢見心地の状態で訪れたところに二人で来て、①を追うなら②は難しいんじゃ……となる。みたいな流れで大体合ってますかね?
 
そして、時は流れて5年後。ミアもセブも①を叶え、偶然に再会する。そこでセブがあのテーマ曲を弾くと、すべてが巻き戻り、存在しなかった「もしこうしていたら」の世界が流れる。これは二人で全部うまくいくという③夢みたいな幸せの延長を想像したとカウントしてもいいんじゃないかなとわたしは思っている。ただ、この場合セブはこの店のオーナーになっていないのではないか?というのがあるので、ミアに寄ったある意味都合のよい夢だったのでは?とも思う。このifストーリー部分、あまりに華やかで幸福で、正直今までの流れがそんなにだなと思っていた分ぐっと来てしまって、あまり冷静に覚えていないんですよね……。
 
で、このifストーリーの後、ミアとセブは一言も交わさず、目だけ合わせて(合わせたよね?)ミアが店を出る。THE ENDという文字とともに物語は終わる。
 
で、ほんとに正直に言うとわたしは物足りなくて、いいとも悪いとも言えなくて、なんでこんな言ってしまえばよくあるストーリーの作品が絶賛?撮影技術がすごいから?と思っていた。最後まで物語に入り込みきれなかったので、入り込めたならもっと違ったのか?作品に込められたものを汲み取れていない、よき受け取り手になれなかったのでは?と思ったので、考えてみた。
 
そのとき、TLで見た1950年代風ララランド予告を見て、あまりにしっくり来ることに驚いた。で、ララランドという作品そのものが、④監督あるいはミュージカル映画(?)にとっての夢(願望)なのではないか?と思った。そこがかなりの意味をもつのだとしたら、その文脈を共有していないわたしがそんなに……と思ったのも頷ける。
 
デイミアン・チャゼル監督作品が普段からそういう傾向なのかは知らないが、この作品はとにかく誇張が激しいように思う(いいとか悪いとかではなく)。スポットライトが当たったり、恋の夢見心地で空を飛んだり。そういう誇張が、物語レベルだけではなくもうひとつ上の、制作レベル、見せ方、どうやって表現するかというhow、作品の外についても行われているのではないか。
 
夢を追っているときの華やかな衣装だったり、カメラワークだったり、なんか仕掛けレベルでもオーバー。で、「ミュージカル映画ってこうでしょ」みたいな、そのまんまやるところと、「従来のミュージカル映画じゃこうはしないよね」みたいな、少しずらすところがあるように思う(歌うタイミングとか、単なるイメージですが)。
 
わたしが気になっていたのは最初のほうでバーンと浮かぶタイトルと最後のTHE ENDで、これはこの映画すらひとつの④夢物語である、ということをはっきりさせているような気がした。「まさにってかんじのミュージカル映画作ってみました、でもこれも私の見た夢物語なんで」みたいな。映画が夢物語というのは多くの場合それはそうなんだけど、あえてそう提示することで、ある人は現実に向かい合ったり、ある人は夢を追うことを決めたり、なんか受け取り手の自由にできる範囲が広い気がするな……と思った。物語の受け取り方自体は結構限られてくる気がするのだが、そこから想起しうるものの幅が広いな、というか。
 
有名俳優は自分の選んだ道に納得できるかもしれないし、悩んでいる俳優はこれを見てどう歩むかを決めるかもしれない、俳優のファンは自分とセブを励ますミアを重ねるかもしれないし、うまくいかなかった恋の経験がある人はそれを思い出すかもしれない。ミュージカル映画に関わる人々は、古きよきミュージカルが忘れられていないことに安心するかもしれない。
 
わたしはこの作品を「夢」でくくったりして考えることでだいぶ納得できた。物語が好きっていうよりも、技法というか、やろうとしてるかもしれないこと?を想像したことで、評価されている部分が少しでもわかった気がする、というか。
 
物語については前エントリで書いたけど、ifルートじゃない今回の現実では、一応ミアがセブに店を開かせ、セブがミアを女優にした。見つけてくれる、自分を愛して夢を叶える方向に向かわせてくれるSomeoneはたしかにいたけど、ずっと隣にはいられなかった。②二人の幸せな夢は叶わなかったし③夢見心地ではいられなかったけど、①一人一人の夢は叶った。そういう④夢物語です。ってことだと思いました。だからそこの結末はわりと好きだったな、その結末に向かう材料をぶちこんだのかな?みたいな設定はあまり好みではなかったんですが、物語すらベタにするという誇張であるならば理解できるかも……。しかし、映画でこんなに「わたしこの作品のことわかってるのかな?」って思ったのは初めてで、まんまとたくさん考えてしまったな……。
 
あと、誇張っぽいなってことに気づいてからは、わたしはハリウッドザコシショウの誇張しすぎたモノマネで死ぬほど笑うようなタイプなので、なんかもうその「誇張がすごい」ってことだけでおもしろいなってなっちゃいました。以上です。