とっちら

好きなことを取っ散らかします。

選ばれてしまった人たちのこと。

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読みました。

最初の感想はこんな感じ。この記事なしでオチビサンを読んでいたら、そのめちゃくちゃあたたかいタッチに「あれ、これほんとにシュガシュガルーン描いてた方の漫画…?」と思ってたかもなあ。安野さんの漫画って、ギラギラ・華やか・しゃっきり、という感じのイメージだったから。

本当にこの記事めちゃくちゃよくて、夫の庵野さんとのほっこりするエピソードもあるし、オチビサンの彩色方法についても書かれているし、内容盛りだくさんなのにすっきりまとめられていてすごすぎてわたしにはうまく紹介できないので、ぜひ読んで自分の目で確かめてほしい。多分人によって響くところが結構違うんじゃないかな。

 で、せっかくなので、わたしはわたしの中で響いたことを自分なりに書いてみようかな、と思った。

 わたしがこの記事を読んで真っ先に思い出したのは、ある友人Kの言葉だった。

 

「好きなことやってるヤツらはな、全然楽しくないと思うよ。いや、楽しいけど、めちゃくちゃ苦しい。けど、それしかやれへんから、やる。それ以外、何もできひん。どうしようもないねんもん。」

 

なんだろう、論理的には正しくないと思うんだけど、すっごく言ってることはわかった。Kは、ダンスもすれば歌も歌うし、めちゃくちゃ本も読むし、書いたレポートは嫉妬するくらい面白いし、もし表現に神様とかがいるなら完全に「選ばれた人」だと思う。

Kの他にも、わたしの周りには「あー、こいつ選ばれちゃったな」と思う人が数人いる。正確には、人はみんな何かしらに「選ばれちゃった」存在だとは思うんだけど、とりわけ表現の神(もう便宜上いることにする)に選ばれちゃった人がわたしの周りには多い。

なんで「神に選ばれる」っていう肯定的に使われやすい言葉に対して、わたしが「~しちゃった」っていう表現でマイナスの意味をくっつけるのかというと、それが決して幸運なことだとは言い切れない、むしろ捕まってしまったようなものだと思うからだ。

 

神の愛はときに人間を傷つける、みたいな話はいくつもあったと思う。表現の神に選ばれることが、その一点において神に近しい性質を人に持たせるとするなら、それによってその人は人間界から浮く。今なお推奨される「普通」からは離れた存在になる。でも神になれるわけじゃないから、どちらにも所属しきれない苦しさ、見えてるものを掴みきれない苦しさ、神の愛を運用しきれない自分、そういうものを抱えて、それでも作るしかなくて、作り続ける。たくさんの表現者が、それに耐えかねて命を絶った、と思う。

 しかも、「選ばれちゃった人」は必ずしも評価されるわけではない。神はわりと適当に愛す。場合によっては、感性だけを与えて作り出す能力は与えなかったりもする。

 

これは多分「産みの苦しみ」ってまとめられてしまっているものだと思うんだけど、それを味わっている人全員が愛されちゃってるとはわたしは思わない。し、別に愛されてなくて表現はできる。し、評価される。ただただ楽しくモノを生み出せる人もいる。苦しまないでやれるなら、それに越したことはないよ、とその人の精神衛生を考えて勝手に思うこともある。

なんかわかりにくいかな。わかりにくいよね。

神に選ばれちゃった人は、その能力ゆえに必ず苦しむ人。

単に神に選ばれた人は、苦しむことなく能力を発揮できる人。

そんな分類で考えていました。超楽しむだけでいられて、マイナスな感情なしに何かを作り出せるのは本当にラッキーな選ばれた人だと思う。多分だけど稀にいる。徐々に主導権を握れるようになっただけなのかもしれないけれど。

 

すっごく唐突に記事に話を戻すけど、あれを読んでわたしは、安野さんは「選ばれちゃった」人じゃないかなあと思った。それを支える夫の庵野さんがいてくれてよかった、と心から思ったし、何よりご自身の作品で心を癒せてよかった、と思う。

 わたしが、友人を時にボコボコにする表現の神様を憎みきれないのは、そいつが癒しの機能も表現に付与しているからだ。最初に載せた記事のタイトルにも「漫画を生み出すことに疲れた私は、漫画を描くことで元気になれた」とあるんだけど、そういうとこ。

本当にひどい話だと思うし、神がそのへんにいるならやっぱり一発殴りたいけど、「表現の神様に選ばれちゃった人たち」が一番傷つくのも、一番癒されるのも、表現だから。わたしには少し離れたところで静かに見ていることしかできない。

 

だから、どうか選ばれてしまった人たちが潰れてしまうことのないよう。そんな祈りに近い気持ちでこのエントリを書きました。ちょっと疲れたな、って人はぜひオチビサン、見てね。

 

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