とっちら

好きなことを取っ散らかします。

自分の知らない確かなものをどこまで信じられるか|小川洋子『博士の愛した数式』

小川洋子博士の愛した数式』読みました。 

博士の愛した数式 (新潮文庫)

博士の愛した数式 (新潮文庫)

 

 これ読んで、数学の美しさを初めてひらめきと共に実感したり、博士みたいな指導者に会えていたらわたしは数学をもう少し得意…とまではいかないにしても嫌いにはならなかったかもなと思ったりなどしました。ただ、数学的な考え方が苦手すぎて、この小説の本当の美しさというか、多分ここに美しさとか感動のピークがあるなってところを理解しきれなかったように思うので、もう一度読みたい。できれば数学が得意な人に、その数式が何に似ていて、どのように美しいのか教えてもらいながら読みたい。数学の美しさを見極めるための力は、まだわたしにはない。

 で、そんなことを考えていたときに、オリンピックのロゴデザインに関する記事があがっていて。

bylines.news.yahoo.co.jp

あーなんか共通するものを感じるな、と思ったのでそのことについて書いてみようかなと思います。結論として言いたいことは、タイトルにした「自分の知らない確かなものをどこまで信じられるか」というようなことなんだけど。

 

 『博士の愛した数式』の話

わたしがこの本を読んで思ったのは、まあ上でも書いたんだけど数学の美しさで。今まで数学にロマンを感じていなかったからか、きれいだなんて思ったことは一切なかったんだけど。わたしが感じ取れていなかっただけで、数学の美しさはずっとそこにあったんだなと思った。

特に好きだったのが、博士が「直線」を紙に引いてごらん、と言うところ。本来の直線の定義には端がない。だから、「私」が紙に引いた端のある直線は、ある二点をつなぐ「線分」になってしまう。しかも、引いた線には太さがあるから、そこには面積が存在する。それでは直線とは言えない。要するに、その「直線」とされているものは本来の「直線」からは遠く離れたものになっているというわけです。

では、どこに本物の直線が存在するのか。それについて、博士はこう示します。

「真実の直線はどこにあるか。それはここにしかない」

博士は自分の胸に手を当てた。虚数について教えてくれた時と同じだった。

「物質にも自然現象にも感情にも左右されない、永遠の真実は、目には見えないのだ。数学はその姿を解明し、表現することができる。なにものもそれを邪魔できない。」

小川洋子博士の愛した数式』(pp.179-180)

 いやーこれすごくないですか。数学によってのみ正確に表すことが可能なものが存在するっていう。他の方法でも表すことはできるけど、正確に、本当の姿が見られるのは数学だけって、なにこの特別感。

 

で、これは余談かもしれないんですけど、数学の先生って「証明にも美しいものとそうでないものがある」とかって言うじゃないですか。ずっとそれがイマイチ理解できなかったんですけど、数学を言語の一種だと考えればすごく納得がいくんですよね。

同じ日本語で、例えばぶどうがある、ということを説明するとして、それを「机の上にぶどうがある」って言うのと、「茶色い4本の棒に支えられた板の上に、紫色の球がいくつも連なったものがある」って言うのは同じ真実を指しているわけで。

そんで、表現の良し悪しとは関係なしに、たどり着くのが速くてスマートなのは前者だと思うんですよね。で、多分数学的に美しいとされるのは前者なんじゃないかなと思って。こういう風に考えてみることを通して、数学界(?)には数学界なりの美しさがあるんだなあと実感できました。

 

まとめると、

  • 数学は美しい
  • 数学でしか正確に表せないものがある
  • 「数学的美しさ」と言うべきものがある

こういう感じのことなんですけど。これらのことって、わたしが知らなかっただけで、ずっと存在してたんですよね。わたしの中、理解できる範囲になかっただけで、わたしの外にはずっと前からあったっていうか。数学の先生の「美しい証明がある」なんて発言はまさにそれを表していて。

つまりは、うーんとどう言ったらわかりやすいんだろう。数学の美しさ、みたいなものを、ここではAとおいてみます。

「わたしが理解していない」「認識していない」Aというのは、決して「存在しない」「正しくない」ものではないんですよね。これすごく当然のことなんですけど、うっかりすると忘れちゃうことな気がしています。どうですかね?

デザインの話

で、やっと…やっとデザインの話に入れます…!この記事読んでみてくれました?大丈夫?

bylines.news.yahoo.co.jp

もうなんか、ここから先で書くこと予想つくかなと思うんですけど、さっきの「わたしが知らないものは正しくない・存在しないわけではない」みたいなとりあえずの公理みたいなものはこれにも当てはまる、そういう話に尽きます。

 

わたしを含め、多くの人がそんな日常的にデザインに関わっているわけじゃないんですよね。だから、わたしなんかはこの記事で紹介されているようなデザインの論理って全く知らずにここまで生きてきたわけなんですけど、デザイン界にはデザイン界の美とか、その生み出し方とかが存在しているんだと思うんです。当然のことながら。

厄介なのは、数字と一緒で、ロゴっていたるところにあるんですよね。日常的に目にしている。だから、その「いつも見かける人目線」程度のものはわたしたちは得ちゃっている。

わたしが証明の美しさを語る教師に「?????」となって、なんならイラっとまでしていたのは、多少は対象(ここでは数学)を理解できているっていう思いがあったからだと思うんですよね。全くわかんないなら、「そういうもんかあ」と思えた気がして。

例えが変かもしれないけど、わたしはアラビア語が全くわからないので、アラビア語の単語を見せられて「美しい言葉だろう?」って言われたら「わかんないけどそうなのね!」って思えるんじゃないかなって。でも、多少はわかる中国語を見せられて「美しい言葉だろう?」って言われたら「えーニュアンスが変」「やたら難しいね」とか思いかねないなって思うんだけど。どうだろうこれ伝わるかな。

デザインの件もこれと同じようなところが多分にあるとわたしは思っています。今回引っ張ってきた深津さんの記事からは、デザイナーによるロゴの類似性の判断基準が大衆とどう異なりうるのか、ってことが読み取れると思うんだけど、「美しさ」とか「いかに使いやすいか」とかの基準も多分違うんだろうなあと思いました。

でも、さっきも言ったようにわたしたちはロゴを見慣れているから、なんとなくの判断基準を持っている。で、それは多分、本来ロゴに求められるべきものとは少しズレているんじゃないかなってわたしは思う。そのズレに自覚的じゃないと、そしてわたしの知らない専門性を持っている人たちがいるんだっていう適切な謙虚さを覚えておかないといけないんじゃないかって思ったんですよね。

正直わたしはロゴ自体についてそんなに興味がなかったというか、自分のデザインセンスが皆無なので「ほーんシンプルだなあ」程度の感想しか持っていなかった。Twitterで他の人の考えたデザインが回ってきても、「ふーんこれもきれいだなあ」と思っていたし。モノクロ印刷とか、縮小されることとか、その他考慮すべきであろう様々なことについて全く思いつきもしなかった。

で、こういうのは、さっきの本の感想によせて言うならば、わたしが「デザインの論理」「デザインの美しさ」を知らないだけで、それらが存在しないということではない。確かにそれらを知っている人は存在していて、知らないわたしたちは彼らに任せたり、場合によっては説明してもらって歩み寄ったりすべきだと思う。

数学の話もデザインの話も、普段見ているから知っているような気になっているだけで、一歩踏み出せば多分そこにあるのは異世界で。グローバルな視点で異文化交流を〜とか以前に、もっと身近なところにある異文化に気づいて認めていきましょうよ、その存在と自分の無知を、と思いました。

 

まあなんかごちゃごちゃと書いてしまったんですけど、「自分の知らない物事について、無いものとしてしまっていないか?自分の論理を押しつけていないか?」と問うことと、「自分にはない専門性を持っている人を適切に尊敬する」ってことがもっとできれば、なんかみんながハッピーじゃないすかね、と思った話でした。*1

だから、タイトルに戻るんですけど、自分の知らない確かなものがあるということ、それから、それを知っている誰かの存在や発言というものについて、どこまで信じられるかということが、人類の今後の平和な発展とかに関わってくるんじゃないですかね。知らんけど。

*1:これはちょっとでもわからないことがあれば意見を言ってはならないということではなくて、むしろ理解できていない、他の論理があるのかもしれないということを自覚しながら相手に問う(意見する)ということは大切だと思っています。