とっちら

好きなことを取っ散らかします。

わたしにとって「書くこと」とはなにか

書きたいから書く。それ以外にない。

うそがつけないたちなので、書きたくないものは書けない。課題や仕事以外では。

 

tottira.hateblo.jp

このエントリを書いた後どうにも消化不良で、「なんでこんなもの書いたのか、これは有用なんだろうか」とめちゃくちゃ悩んだ。一瞬下書きに取り下げもした。なんかこれ、なんなんだ?という思いでいっぱいになってしまった。

なんでなんだろうとちょっと考えたんだけど、うそがまざっているからだ。悪意はひとつもない、どちらかと言えば善意に基づいたうそ。

あの記事の目的は、落語を聞きに行ってみたいけど行けないという人の後押しをすること。

そもそも、なんらかの意図を込めて文章を書くのが苦手だ。意図とかないし。思った、書いた。それだけ。どう思ってほしいとかは特にない。多分意識の下にはあるんだろうけど、わからない。軸にする意図がないからすぐ話が逸れる。わたしの思考のプロセスそのままなので。たまに戻ってくることもあるけれど。

 

以前、とある原稿を思いつくままに書いたとき、偉い人に「文章自体はダメじゃないんだけど起承転結にそろえようか。起!転!転!転!転!結!!!!みたいな文章だね」と言われたことがある。後半に関しては全くその通りだと思う。考えが散らばっている自覚はある。

 スタート地点を決めたらいろんなものを集めてきて、周りに散らかして、眺めて、一気に収束させる。そりゃあ多少の予測はあるけど、ゴールはそのとき決まる。書いたあとで「あの資料はいらなかったんだな」と思うこともあるけど、自分にとって必要じゃなかったものはなにもない。この結論に至るには、途中の不必要にみえる材料と、それをみたときに感じたこと、また、そこで考えたことが必要だったから。

いや、もしかしたらその材料がなくてもたどり着いてたかもしれない。でも、わたしはもうその材料を集めてしまったから、その材料がない世界は存在しなくなった、からなんとも言えない。スタート地点をA、ゴールをB、その材料をCとするなら、点Cを経由せずにAB間をつなぐことはできたのか、もうわたしには一生体験できない。理論として、予測を積み上げてわかることはできるかもしれないけど。

 

こうやって、自分で反論して、それをまとめて、場合によってはさらに反論して、という具合に、一人対話、テーゼアンチテーゼジンテーゼごっこを繰り返して、それを結論だけじゃなくてプロセスまで書いてしまうから、自然と文章が長くなる。暫定的ジンテーゼだけを載せればいいんだけど、どうしてもプロセスが好きで。だからこそ個人のブログにツイート、対談や書き起こし、またそれらについての記事が好きなんだと思う。批評を読むのも好き。自分自身も趣味で書く限りはこの書き方を続けるんだと思う。編集能力がないのは自覚している。でも編集されていないものが好きなんだ。

 

話はとっくにそれているけど、一度もそれていない。落語というのは不思議なもので、会場で得られる情報量が極端に多い。それは部屋の温度であったり音声であったり、マイクのハウリング音であったり。噺それ自体、落語家のしぐさや表情、近くで笑う客から伝わる波動。もうほんとに、経験者のきもちとしては「つべこべ言わず一度聞きに行ってくれ、じゃないと一生わからない」に尽きる。

 

こんなに百聞は一見に如かずという言葉に納得したことはこれまでなかった。でもそれじゃあ今まで通りだから、せめて相手の不安をつぶそうと努力はした。ほんとは「落語の良さとか見にいけばわかるからとりあえずなんでもいいから行ってみてくれ、不安ならシブラク行ってくれ」ですむ話を5000字に渡ってした。多分どこかでムダだなあと思っていたんだと思う。書き終わったとにはっきり表れてきただけで。でも、わたしは行くときめちゃくちゃ不安だったんだ。一人で。めちゃくちゃ心配性のわたしが必要としてたのは、ああいうエントリだった、はず。もう点Cを通ってしまったわたしにはわからないことだけど。ほんとにライターさんや編集者さんはすごいと思う。読者のフィードバックはすごく大切だ。以前からいいと思ったものはエゴサを見越してツイートしてきたけど、もっと直接感想を伝えるのもいいなと思った。

 

わたしにとって「書くこと」は、「目に見える形で、自分の考えを整理すること」だ。主目的は「自分の考えを整理する」の方なので、別にブログにする必要はない。利便性と、ついでに誰かが読んでおもしろがってくれたらいいな、みたいな気持ちの関係でブログにしているだけ。ツイッターもツイートは自分自身のためにしかしていない。RTや記事の紹介はフォロワーさんを意識しているときもあるけど、それ以外は特に。でも読んでくれている人のことはすごくありがたいなあと思っているし、嬉しいよ。ただ、見られることが目的じゃないというだけ。発表するために書くんじゃなくて、書いたから発表した、それだけ。

 

……毎度のことなんだけど、着地点どうしましょうか。いつも気がすんだら終わりにしてるんだけど。もうだいぶ気はすんだからそろそろかな。

 

落語のエントリを書いてみて、久しぶりに文字というか、言葉の無力さを感じました。言葉では、言葉で伝えられるものしか伝えられない。本当にいいものを言葉だけで表現するのは難しい。それは言葉以外の成分だったりする。落語のよさを伝えるなら、まあ文章でも努力はするけど、できれば見終わったあとのわたしのテンションとか表情とかを見てほしい。それを記述することもできなくはないんだけど、「テンションが上がって頬が紅潮し、目が輝く」って言われるよりも直接見た方がリアルではやいでしょう。息づかいが体に伝わるでしょう。あら、まとめていたら身体性の重要さまで発見してしまった。そんなことを自分が思っていたとは、びっくりびっくり。

 

文章を書き終わると、気分が落ち込むことも多い。それは多分、情熱だとかそういうものを、全部その文章に委託してしまうから。その分ぽっかりあいてしまう。代わりに、多少総量は小さくなるかもしれないけど、いつでも引っ張り出すことができるようになる。

 

文章を書くことは、どこかの貸し倉庫に大切なものを預けるような行為だ。だからこそ、本当に大切で大事にしたい思い、特に他人との関わりの中で生まれたときの気持ちは、わたしはあんまりツイッターにもブログにも書かない、詳細には。それらは、見つけさえすれば誰でも入れる倉庫だから。

わたしとその人だけの経験は、コンテンツにする気なんてなかった経験は、わたしたちだけのものにしておきたい。手元に置いておきたいから。忘れてしてしまいたくないから。きっとそれらは、倉庫に預けなくても引き出せる。

 

eikaiwa.dmm.com

 

言葉は邪魔だ。たくさんの意味を持ちすぎているから。わたしの「嬉しい」と相手の「嬉しい」が一緒だという確信がなかなか持てない。あなたの見ている赤とわたしの見ている赤は一緒だろうか、という問いと同じように。

 言葉は邪魔だ。情報量が多いから。言葉自体の意味だけでなく、色や手ざわり、リズムがときに邪魔をする。そして、それを慎重に選んだとしても、相手が同じように感じるとは限らない。

 言葉は素敵だ。たくさんの意味を持っているから。わたしの「嬉しい」と相手の「嬉しい」がたとえ違っても、それを話していくうちに理解し、共有する楽しみがあるから。あなたの見ている赤とわたしの見ている赤が違っても、それはそれで楽しい。その中間の赤を見つけることもできるかもしれない。希望がある。

 言葉は素敵だ。情報量が多いから。言葉自体の意味だけでなく、色や手ざわり、リズムが新たな効果を生み出す。ときにその音は言語の壁を越える。この特性なしに、落語は成り立たない。

 

そういうわけで、結局わたしは言葉を恨みつつもどうしようもなく愛しているので、文章を書くし、読みます。

 

あと全然関係ないんだけど今実家にいるんですが、文章を書く時間≧人と話す時間になってしまってめちゃくちゃ話すのが下手になっているので、よかったらスカイプかなにかで話し相手になってください…人との関わりはコンテンツにしたくないとか言いましたが、聞いてもらえば全く問題ないばかりか喜んでコンテンツになります…コンテンツ自体になれなくてもその材料くらいには慣れると思うので…ブレストがしたい…人と肉声を利用した会話がしたい…壁打ちの壁役でもなんでもやります、考えの整理(あんまり重くないやつ)にも役立ちますよ…!

 

ということで、ぜひよろしくお願いします。お誘いはツイッターで!

 

(前エントリがダメなのは、主に「ターゲット設定やその他Webメディアの記事として当然すべきこと」が多少わかっているにも関わらずぽやっとやり、捨てきれなかった「落語のよさを伝えること」が出すぎてしまったのが理由だと思うので、絶対リベンジします、今度は詰め込み・ダラダラ癖を廃してターゲットも目的も情報も厳しく絞って、検索したらちゃんと出てくることを本気で狙うからよろしくな)