とっちら

好きなことを取っ散らかします。

「おわりとはじまり展」@ほぼ日のTOBICHI

新潮社の季刊誌「考える人」のリニューアル記念企画、「おわりとはじまり展」に行ってきました。

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1階では養老孟司さんの「ヨーロッパ墓地めぐり」の写真が展示されていて、人骨の扱いって文化や時代によってこんなに違うものなのか!とびっくりした。ポルトガルの納骨堂ではね、人骨が内装に使われてるのですよ。

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わたしは中学生ぐらいのときから骨、主に人間の骨格がなんとなくけっこう好きで、わりと本気でいつか小さくていいから骨格標本がほしいなと思っていたりするんですが、これは一度見に行ってみたいかもしれない……と思った。

日本ではお葬式がコンパクト化したりしてると思うんだけど、「死」の扱いが今後どうなるのかというのは気になっている。

 

2階は、リニューアル後の特集「12人の考える人」に関する展示。パネルの近くには学校のような机と椅子があり、そこに各人の著書が置いてあった。真っ白なノートと原稿用紙も。ノートにはその展示や著書を見た人の感想や読書メモが残されていて、ああ、こうやってじっくり、本と自分と向かい合いたい、と思った。

展示全部を見終わったときに思ったのは、「わたしもこういうのを書いてやりたい」ということだった。もちろん考えるのは好きだけど、わたしも渡す側にまわってみたい。静かにメラメラ闘志を燃やす。

 

帰り際に、編集長の河野さんと、編集部の方と少しお話することができた。お話している中で気づいのだが、わたしはこういう雑誌を買ったことがなかった。初めての雑誌。季刊だからゆっくり読んでも大丈夫。

 

行きの電車で読んでいたヨシフ・ブロツキイ『私人――ノーベル賞受賞講演』で、詩人ブロツキイは、読むということは能動的であり、極めて私人的な行為であると言っている。

私人とは、公的な地位や立場を離れた一個人、ということだ。そこには作品と「わたし」しかいない。

この講演が行われたのは約30年前。リアルに接続されたSNSでの「つながりっぱなし」が起きているという点で、当時と今では少し違うかもしれない。インターネットを介して文を読みながら完全な私人になることは、はたしてできるだろうか?(できないとは思っていないけれど。)

 

本や雑誌にはシェアボタンがない。本に向かうとき、その視界に他者の意見や評価は入ってこない。作品と「わたし」。

深く考え問う前にシェアできてしまう今、「書籍だからできること」もたしかにあるような気がして、それを体現しようとしているのが「考える人」なのかもな、と思いました。定期購読しちゃおっと。