とっちら

好きなことを取っ散らかします。

ストレングス・ファインダーやってみたらなんか恥ずかしかった

こんにちは。あっという間に2月になりましたね。今年の初めはやたら時間が過ぎるのが遅いなあ〜と思っていたけど、気づいたら12分の1が終わっていたということは、なんだかんだで今年もすぐ終わってしまうのでしょう。久しぶりのうるう年なのでちょっとわくわくしています。

 

yxmk.hatenablog.com

なかむらさんのこの記事を読みまして、ずっと気になってたしこれを契機にストレングス・ファインダーやっとくか〜!と思ってこれ買いました。

www.amazon.co.jp

昨年の半ばあたりで結構自己認識や価値観が揺らいだりもしていたからか、悩む選択肢もめちゃくちゃ多かった。時間あけてやってみるのもおもしろそうだな〜と思ったので、今回の結果をメモしておこうと思います。

1.共感性

あなたは周囲の人の感情を察することができます。彼らが感じていることを、まるで自分自身の気持ちであるかのように感じることができます。本能的に彼らの眼で世の中を見ることができ、彼らの見方を理解できるのです。(略)

まあ薄々くるかなとは思っていた。思っておりましたとも。ただこれ、めちゃくちゃ勘違いしてる可能性もなきにしもあらずというのが結構こわいとこだなとも思う。

2.学習欲

あなたは学ぶことが大好きです。あなたが最も関心を持つテーマは、あなたの他の資質や経験によって決まりますが、それが何であれ、あなたはいつも学ぶ「プロセス」に心を惹かれます。内容や結果よりもプロセスこそが、あなたにとっては刺激的なのです。(略)

 わかる。

3.個別化

「個別化」という資質により、あなたはひとりひとりが持つユニークな個性に興味を惹かれます。あなたはひとりひとりの特徴や個性を覆い隠したくないので、人を一般化したり、あるいは類型化することに我慢できません。むしろ、個人個人の違いに注目します。(略)

 よくわかる。共感性とこれって結構関わりがあるのでは?というかんじする。

4.収集心

あなたは知りたがり屋です。あなたは物を収集します。あなたが収集するのは情報――言葉、事実、書籍、引用文――かもしれません。あるいは形のあるもの、例えば切手、野球カード、ぬいぐるみ、包装紙などかもしれません。集めるものが何であれ、あなたはそれに興味を惹かれるから集めるのです。(略)

 わかるけど……なんか恥ずかしくないですか!?「知りたがり屋」って!いやわかるけど!

5.原点思考

あなたは過去を振り返ります。そこに答えがあるから過去を振り返ります。現在を理解するために、過去を振り返ります。(中略)初対面の人や新しい状況に直面すると、慣れるのにある程度の時間を必要とするでしょう。しかしその時間を取ることを心掛けなければなりません。(略)

 特に最後のほうめちゃくちゃよくわかる、というかんじ。ただこれ、あんまりよくないところかもなあと思っている部分だったので、少し複雑な気持ちになりました……。

 

こんなかんじだったんですけど、4つ目に収集心が出てきてるの見たときわりと笑っちゃいました。収集心って、なんかそんな……そんなのが上にきちゃうの!?分析思考とか達成欲とかかっこいい響きのやついろいろあるのに!?という気持ちだった。

でもこれね、英語になるとまた雰囲気が変わるんですよね。Empathy,Learner,Individualization,Input,Contextの5つ、って見ると結構違いません?なんかこっちのほうがいくらか正確なかんじがする。特に知りたがり屋→Inputの違いは大きくないですか?

 

5つ全部を眺めて思うのは、やっぱりトップでグイグイと言うよりはサポート側と言いますか、誰かあってこそといいますか。サブっぽい立ち位置のほうが活用できそうなものが多いかな。相手のそれぞれの背景を知って、それに対応していくとか。しかも収集心と学習欲があるから、それらが苦じゃないんですよね多分。やっぱり人間同士で関わることが好きなんだと思うので、そのへんは忘れずにいたい。

インタビューの文字起こしをしていることもあって、最近はインタビューすることや編集することへの興味が高まりつつあります。そして企業内なら人事も気になる。とは言えいろんな職種に興味があるから、少しずつでも全部体験できたらいいのになあと思いながら、ちょこちょこ地元でインターンに行ったりもしています。

『さあ、才能に〜』の本自体はまだほぼ読んでいないので、来週中には一通り読めるようにしたいなあ。そんでもうちょっとじっくり考えたい。ひとまず以上です。

コミュニティが苦手なわたしとインターネット

昨夜したツイートが、わたしとインターネットの関係性をほんとによく表してるなと思ったのでメモ。

以前わたしが見ていたのは完全に「趣味のインターネット(利益が出なくていい)」だったので、今見ている「仕事としてのインターネット」と性質が違うのは当然のことだとは思うのですが、わたしは「所属しなくても情報が得られる」というのがインターネットのいいところだなあと個人的に感じていたので、残念。

インターネットがサブの場だったからこそできていたことがあると思うんだけど、いまやインターネットがメイン、そこからリアルに近いコミュニティに流す、というのが多くなってきているので、大事な部分はリアルに持ち込まれることが多く、リアルありきというか、なんかそういう感じがする、という話。わたしはあまりリアルで関わるのが好きでないというか、対面でのコミュニケーションがそんなに得意でないので、やりづらいなあといったかんじ。

いわゆるオタクがインターネットに多く、日本のツイッター初期は彼らがぶわーっと流れ込んだオタクのツールだったという気がしていたので。これはもちろんわたしの観測範囲では、という話ですが。

ここで言うリアル強者というのは、主にリアルで普通に振る舞える人という感じの意味、人との対面コミュニケーションにストレスを感じないとか。さっきと同様、サロン等(最近で言えば有料記事)があることによって、わたしが一番価値を感じるような情報は誰でもアクセスできるわけではなくなった。アクセス権云々については、そもそも誰でもアクセスできる時代なんて来てないと思ってますけどね、さらにね、という感じ。かつてのファンサイトとかはいわゆる「裏」も探せば見れたし、まあ多少の労力が必要だったかもしれないけど金銭も会う必要もなかったのだ。だからこそ会ってみたくなるのかもしれないですね。

田舎なので、インターネットが開通したのが10年前(2005年)だったんですけど、そこからずーっとインターネットをそれなりにがっつり使っていて、その中のリアルとは断絶されたコミュニティとかに救われたことのあるわたしとしては、かつてのそういうインターネットが見つからなくなるのは寂しい。自分の所属するクラスタが変わったというのもあるだろうなあ(お絵描き掲示板とかおい森とかニコニコ動画とか好きだった)。あとはオタクの地位の変動も関係してそう。わたしは表に出たかったわけじゃないし、明らかにされたかったわけでもないんだ。

これは「彼女のいる彼氏」という矢島光さんのマンガを読んでの話なんですけど、徳永は人たらし感のすごいできる男。チャラいけど、苦労をあまり表に出さないようにできる。

わたしはそういう人のことをめちゃくちゃ尊敬していて、どんなときも笑顔とか、化粧をちゃんとするとか、おしゃれするとか、そういうところがほんとに苦手分野なので本気ですごいと思ってる。そういう人相手だと仕事もとってもやりやすいし。雰囲気づくりが上手い人は超超超超憧れる。だからこそ、同時にコンプレックスもバシバシに刺激されるわけで、これはこっちの問題だから何がどうとかいう話ではない。

だから、わたしがWebメディアのコミュニティ化が好きじゃないというのは、わたしが人付き合いがそんなに得意じゃないのもあって、コミュニティに参加しないと素敵なものが得られないとなると、わりとハードルがあって個人的に困ったなあという話でした。Webメディア側からしたら、そっちのほうが色々確実なんだろうとは思うんですけどね……

ツイッターとかニコニコ動画が好きなのは、多分コミュニケーションが成立してるように見えて、それらがほぼ一方通行だったからだと思う。

それは義務感か願望か。「〜しなきゃ」「〜したい」問題

明けましておめでとうございます。今年は「まとまらなくてもいいや〜」くらいの気持ちで、ツイッターにはちょっと長い文章をこちらで出していけたらと思っています(とか言ってたらツイッターで1万字投稿できるようになるらしいですね)。

 

で、新年最初のエントリがこれです。「〜しなきゃ」と「〜したい」について。一言でまとめてしまうなら「ほしいからという理由で買わせてくれ」という話。

 

 

こういう感じのツイートをしたわけなんですが。「〜しなきゃ」「〜したい」の2つのうち、より長くその気持ちや行動が続くのは後者だと思っています。前者は義務感から起こる、多分少し焦りのある状態で、後者は純粋な願望。もちろんそれは誰かによって意図的に掻き立てられた可能性もあるのですが。

わたし自身はどちらかというと前者、義務感から動くことが多くて、それやりすぎると疲れるんですよね。あとそうでない人に対して寛容でいられなかったりする。

だからそれを、「〜したい」と口だけでも言い換えてみたり、捉え方を変えてみたり、ほんとに願望になるまではやらないようにしてみたり…という対策をし始めてみました。人と関わる中ではウソの願望は口にしないようにしてるんですが、自分だけに関わることならそうやって騙してみるのもアリかなと。

ここまでがツイートその1の話。ここからはツイートその2の話をしていきます。

たしか最近TLで、アーティストのグッズを買うべきという風潮について、のような記事が流れてきていました。さらっと一読したのですが、ちょっとしっかり覚えていないのでその記事自体には言及しません。

アーティストのグッズ購入などの一部には、義務感「〜しなきゃ」が関わっているように思われます。特に最近は、という印象なんだけど、どうなんだろう。あんまりそういう界隈にいないから、最近情報が入り始めただけかもしれません。

たしかにそのような支援がないとアーティストの生活は厳しいのかもしれません。だけど、それを義務感で買うことがはたして続くのか?と考えると「うーん…」となってしまいます。

アニメの円盤買わなきゃ、とかもそう。買いたい、はすごくいいと思うんですよね。ただ、買わなきゃ〜となると、さっきも言ったように、長続きしないし他人にも強制してしまいそうな気がする。「あなたもこれ好きなんでしょ?じゃあお金出して応援しないと!」みたいな感じで。これ(義務感だとしてもお金を出すこと)が厄介なのは、比較的「善いこと」として見なされているからではないかなと思っています。

 

で、アーティストのグッズはいいんですよ。そんなに問題じゃないんですよわたしの中で。あまりそういう対象がいないので。

もう疲れたのでここからはさらに文章砕きますけど、バッキバキに砕きますけど、そういう「〜しなきゃ!」みたいなのって善いことをしてる人や団体に多くないですか?というのが今回したかった話。善い人たちは「〜しなきゃ」に期待しすぎているというのがより正確かもしれない。(メインの話にたどり着く前に疲れて乱雑になるの直したいですね…)

 

グッズつながりでいくと、例えばフェアトレードな製品だとかさ、これを買うと一部が何かのプロジェクトの資金になります!だとかなんですけど。それを買うときに「●●のためにこれを買わなきゃ」で買うのか、単純に「これ買いたい」で買うのかって、全然違うと思うんですよね。そんで、より多くの人に買ってもらうためには後者であることが必要なんじゃないのか?と。製品それ自体の魅力がないと、思想を共有してない人はおそらく買わないわけで。仮に最初は出していたとしても、他に製品として好きなものが出たら、もうそこにはお金を出さなくなるかもしれないですよね。

あのね、多分善い人たちにとって善いものを買うのはすごく自然なことなんですよね。「解消しなきゃ」という問題があって、そのために何かを買う。でもそれは、ある程度の熱意や思い入れがあるからできることだと思います。そうできない・しない人が大半であるなら、そういう人たちにまで届くものにしなければならない。口で言うのは簡単だ、というのは重々承知してるんですけど、案外善い人たちはここの差に気づいていないのでは?と思うときがある。あるいは人の善さを信じすぎている。

 

逸れてきた感がありますが、要するに「〜しなきゃ」じゃなくて「〜したい」のレベルまで持ってこないと、善いことであってもたくさんの人は巻き込めないんだな〜と思った話です。特にお金を出す場合には。

もちろん善い人のことを悪く言っているわけではなくて、ただ、人の善さを信じることは強みでもあり弱みでもあるな、と思うんです。わたしもわりと性善説よりの考えなので余計に思う。足を踏み入れてないのでわかりませんが、ビジネスの世界ではさらにそうなのかなあと感じています。書いた記事が画像化されてシェアされ本家にたどり着かないとかそういうのを見ていても、多分思っている以上に業界の外の人は中の人の思いに関心がないんだろうなと。

わたしはわりと、どこにも染まりきれずはざまにいることが多いので、なんかそういうところもうまく使えば使えるんだろうなと思った次第。

長くなりましたがひとまずおわり。

早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』読みました

 若干の今更感はあるのですが、『知ろうとすること。』を読みました。 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

うん、おもしろかった。もちろん放射線等についての知識も非常にわかりやすかったんだけど、それよりも物事に対する姿勢みたいなものが印象に残ったかもしれない。対談形式なのでふむふむ〜とあっという間に読めてしまった。

で、早速本筋とは違う話をするんだけど。いや、ほんとはそんなに本筋でないとも思ってないんだけど。わたしが気になったのは、早野さんのあとがきにあったこの文章。

ですから、震災以降の日々は、僕にとっては、あらゆるものが新鮮でした。最初は、コミュニケーションにしても非常に下手でした。四苦八苦しながら、だんだん、社会に対して語るというのはどういうことなのかが、わかっていきました。

ここの、「社会に対して語る」という部分が心にとまった。早野さんはそもそも放射線などを専門にしている人じゃなくて、エキゾチック原子というものが専門の物理学の人なんだけど、今回、色々なことをいわゆる一般の人に向けて語るときに苦労したと。

科学は限定的に正しいものであり、いつか書き換えられるかもしれないものである、というのは科学の世界では当然な考え方。だからこそ「この場合はこう」と限定した言い方をするんだけど、それが一般の人にはなかなかわかってもらえない。

 

科学の分野に限らず、「社会に対して語る」ときには、こういった一般との断絶みたいなものを乗り越えなければならないのだと思う。そのために、早野さんは「科学的には必要のない機械」であるベビースキャンという機械を稼働させた。

この機械を、糸井さんは「不安を解消してもらうためのコミュニケーションツール」と呼ぶ。社会に対して事実を伝えようとするとき、もしかしたらそのような存在が必須なんじゃないか。事実がどーんと真ん中にあって、その端をじゅわじゅわと溶かして広げ、まわりに浸透させるもの。

 

最近すごく思うけど、事実だけで人を動かすのは難しい。わかっていても不安なことがあるし、わかっていてもやらないことがある。それって「わかった!」ではない状態だからだと思うんだけど、そのびっくりマークを付けられるのは事実そのものではない気がしている。

でもやっぱり、糸井さんも言うように「なによりも、なにをするにも起点になるのは『事実』」なのだとも思う。今はどれが事実なのかを見つけ出すのも容易ではないけれど、できる限りそこから始めたい。

 

糸井さんはもうひとつのあとがきで、こんなことを書いていた。

百歩ゆずって、脅かされるほどの事実があった場合でも、そこからどうやって希望を見いだしていくのか、いっしょに考えるのが伝える人の役目だと思うのです。

誰に伝えるのか、というのもあると思う。特定の誰かなのか、それとも社会なのか。それともそれとも。わたしはやっぱり、何かを伝えるのなら、たくさんの人の前でピシッと立って言えるようなことを伝えたいなあと思いました。

 

「我々の体には、138億年前の水素が入ってる」とかって話もあっておもしろかったので、 よければ読んでみてほしい。500円以下だし。

よい脱線をすることも能力のひとつだよなあ。

文章の力で境界を越えるということ。 #HyperlinkChallenge2015 #孫まで届け

こんにちは、ハルカ(@sharuka0)です。1ヶ月ぐらい長めの文章を一切書いていなかったので、心臓がバクバクする中で編集画面を開いております……。

この度、以前U-NOTEでヒィヒィ言いながらともに特集記事を書いていた自撮ラー、りょかちパイセン(@ryokachii)からバトンをいただきました!嬉しい!ほんとに自撮り力がすごい人です!意味がわからない!

 

一応軽く自己紹介を。

えーと、東京の大学3年生です。人が話しているのを聞くのが好きで、最近はちょこちょことインタビュー・対談等の文字起こしのお手伝いをさせてもらっています。ツイッターではよく何かの感想をつぶやいていたりします。

 昨年から今年にかけて、Webメディアでインターンをしたり、東北に教育関係のボランティアにちょこっと行ったりしていました。いずれは教育に関わる仕事ができたらなあ、なんて考えております。それから、落語が好きです(詳しいわけではないけれど)。

 さて、なんのバトンかと言いますと

今回いただいたバトンは #HyperlinkChallenge2015 という、Web記事のアワードのもの。趣旨や詳細については以下の記事を参照していただけるとありがたい!バトン、7年ぶりくらいだな……

inkyodanshi21.com

目を通していただけたでしょうか!そういうわけで、今年公開されたWebコンテンツで印象に残ったものを、自分が関わったものとそうでないもの、それぞれ1本ずつ紹介していきます!

 今年一番印象に残った記事

今年は本当にたくさんの記事を読みました。その中で、「よくぞやってくれた!」と言いたいもの、讃えたいものはなんだろう、と考えた結果、思い浮かんだのがこの記事でした。

bylines.news.yahoo.co.jp

いやもう、なんか遠い昔のことのような気がしてたんですけど。オリンピックロゴ。今年の夏です。いやあ、ざわざわしましたよね。何を言おうが批判されそうなあの雰囲気の中、UIデザイナーの深津貴之さんが書かれた記事です。この記事の丁寧なことよ。

この記事は、デザインの文脈を知らない「普通の人たち」に対して、本当に親切にそれらを共有してくれている。これ労力半端ないと思うんですよね。

一度知って体に馴染んでしまったものって、なかなか抜けないじゃないですか。自分にとってはとっくに当然になっているものを、どうにかして何も知らない人に伝える。デザイナーと一般人の間にある距離を縮めることにめちゃくちゃ貢献した記事だと思います。その後、たくさんついたコメントにも本当に粘り強く対応されていて、ものすごかった。

普段目にしているものを、わたしたちは「知っている」と勘違いしがちな気がしています。デザインの専門知識なしにあのロゴを「似ている」と判断したように。

もちろんその道の人にしかわからないことはありますが、「普通の人たち」に伝わらなければできないことも多い。だからこそ、様々な境界を越えようとコミュニケーションをはかることが大事なんじゃないかと思わされました。

そんなわけで、ちょっと大きな話になってしまいましたが、「境界を越えるために尽力したで賞」というような意図でこの記事を選ばせていただきました。

その他、印象に残った記事

まずはこれ。
www.e-aidem.com

ヘドバンする赤べこが忘れられませんでした。印象に残ったとしか言いようがない。

ジモコロの記事は結構読んでいて、コロッケケースも好きだったし、タクシー運転手の記事で実際採用ができたと聞いたときはなんだか嬉しかったです。

 それから、これ。

gurutabi.gnavi.co.jp

五島夕夏さんが可愛すぎる。ものづくり体験はするのも読むのも好きなんですが、このシリーズは工程の写真が多めですごく想像しやすい。行ってみたいところが増えました。

 そして、これ。

apartment-home.net

パティシエールヤカさんの記事なのですが、このお菓子初めて知ったんですよね。水無月。本来6月30日しか食べられないそう。この方の文章は、わたしには思いつかないような言い回しが多くて、フランクなのにお菓子の知識が入ってくる。すごくかわいらしくて好きです。

 最後にこれ。

www.nintendo.co.jp

スプラトゥーン、かつては豆腐。

衝撃でした。やっぱり過程が見えるものが好きなようです。

自分の関わった記事

さてさて、自分の記事です。

tottira.hateblo.jp

2ヶ月ほど前に書いたものなんですけど、自分の記事だとこれかなあ。落語を初めて聴きにいったときの感想を、ちょっと修正したものです。

この記事は、いわば落語を聴いたことがある人とそうでない人の境界を越えようとしたものです。

上記の五輪ロゴの記事のように文脈を説明したわけではなく、ただただ感想を書いただけなのですが、わたしだったらこういうものに動かされただろうな、と思いながら書きました。

結果として、知らない方がFacebookでシェアしてくれていたり、ブログで紹介してくれていたり。何より「落語行ってみたくなった」「連れてって」などの声をもらえたのは嬉しかった。

元々自分が読み返してニヤニヤするためのメモだったので、噺の説明もろくにしていないのに、あちらから境界を越えようとしてくれたこと。ほんとに文章は人を動かすきっかけになるんだなあと実感できたので、この記事を選びました。

バトンを渡したい人

あと期間も10日、しかも年末ということで、わたしは静かにバトンをこの地に置いていこうと思います。興味がある方がいればぜひ。

五輪ロゴ記事の良さを伝えようと必死になった結果尻すぼみ感が否めないのですが、これにて終わらせていただきたいと思います。長くなりましたが、ありがとうございました!

朝吹真理子『きことわ』

 読みました。第144回芥川賞受賞作品らしい。

きことわ

きことわ

 

 なんかこう、全体的にもやがかった感じの作品でした。これは話の内容がモヤッとするとかそういうことじゃなくて、うーんなんというんだろう、話している人たちが遠くに感じられるわけではないんだけど、すこし白っぽいベールのようなものが間でふわふわしていて、ということ。見えたような見えないような、終始そんな感じでした。

それもあってか、話の内容それ自体よりも文章の書き方の特徴?技法?のようなものの方が気にとまった。なんとなく古い感じ(時代遅れとかではなく古典的という意味)の言い回しだったり、舞台上で話すみたいなテンポ・区切れの部分があったり。「からまる」・「からがる」が混在していたのとか、一部脱字らしきものがあったのも気になった。前者は意図的で、「からがる」のときはこう、という決まりがあるのかもしれない。

あとは、最初に出てきたモチーフを想起させるものが再びあとから出てきたとこもいくつかあった。

主人公は二人の女性なんだけど、彼女たちの生活、一見ぴったりくっついて溶け込んでいたときがあったように思われるんだけど、決してそうではないだろうな〜と思った。どちらかといえば半透明のセロファンが一部だけ重なったような、そういう重なりがあっただけで、彼女たちはずっと個人と個人。

で、終始もやもやしてる話だなあ〜不透明で曇ってるなあ〜と思ってたら最後のほうで煙草が出てきたりして、「ああこれは煙草だったのか!」と思った。もやがかった文章のなかにそのもやを発生させるものが直接繋がっていないとはいえ入ってるのは、なんというか、くぅ〜!って感じ。

事件が起きて人が死んだり恋をしたり友情が芽生えたりみたいなことは一切ないんだけど、静かに時間は進んでいて、けれど自分のなかの時間は遡ることもできて、つまりなんなのっていうとなにも起こらないんだけどそこがよかった。

最近、本の中で好きだったフレーズをノートに拾ってみたりしているんだけど、終わってみれば思いの外たくさん拾っていて、ああこの本は自分に合っていたんだなあと思いました。

そしてひとつまたひとつと面影がたつ。身のうちのどこにおさめていたのか、置きどころも知れずにいたというのに、凝っていた記憶が、視線をなげるごとに、なにかしら浮かんでは消えた。

 

2015年10月最終週からの読書メモ

ここ最近読んだ本が、全部初めて読む作家さんの本だったのでしみじみ思いました。最初がいいと次も次も!となるけど、最初で合わないとちょっと次は……となるもんね。1冊目は大事。以下メモ。

 

宮沢賢治銀河鉄道の夜 他十四篇』

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

銀河鉄道の夜 他十四篇 (岩波文庫 緑76-3)

 

図書館で書庫から出してもらったら、まさかの旧漢字盛りだくさんなやつでした。銀河鉄道の夜ってところどころ原稿用紙がなかった部分があるみたいですね。そこの間になにがあったか教えてほしいよ〜みたいなところで抜けてて、そりゃないよ〜と思った。あとこれ絵本になってたと思うんですけど難しすぎません?

よく考えたら宮沢賢治は国語の教科書で「注文の多い料理店」読んでるんですよね。改めてこれも読んだけど、ひらがなの擬音がほどよく不気味でいいなあと思いました。

これはあんまり関係ないんだけど、下手な日本語ってかわいく聞こえるじゃないですか大抵。でもなんか、下手だけど不気味な日本語の間違え方ってある気がしていて(ガンツの「くだちい」みたいなやつとか)、そこの境目ってなんなんだろうなと思いました。日本語として間違ってるっていうか、なんだ、異世界迷い込んじゃった感があるかないかな気はするんですけど。変なのにそれが規則的で統一されてると異世界感が出て、こわいこわいってなるっていう。

話を戻しますと、「銀河鉄道の夜」読みたくなったきっかけが吉本隆明さんの講演音源だったので、あ〜やっぱり仏教っぽいよな〜うんうんと思いながら最後のところは読みました。人の善性を信じてそうだからこそ響くところはあるんだろうなあ。一番好きなのは「そしてみんながカムパネルラだ」ってところでした。この辺授業とかで扱ったら楽しそう〜!と思った。

 みんながめいめいじぶんの神さまがほんたうの神さまだといふだらう。けれどもお互ほかの神さまを信ずる人たちのしたことでも涙がこぼれるだらう。

 

宮下奈都『窓の向こうのガーシュウィン』 

窓の向こうのガーシュウィン

窓の向こうのガーシュウィン

 

 「十九年間、黙ってきた。十九年間、どうでもよかった。」と帯にあったので、「どうしようかなあ暗いかなあ暗かったらやだなあ」と思いつつ借りた。過去形ってことはそうじゃなくなった世界が描かれるかなあという期待もあったので。

読んでみて、こうほんわりしつつも切なく、でもあたたかくという感じだなあと思った。装丁が物語の雰囲気にぴったり。

主人公の佐古ちゃんが、ある気持ちのことを「あんころ」と表現するんだけど、それがすごく気に入った。たしかに!と思った。多分こしあんだと思う。なめらかで口当たりが良くてさらっとしていて少し残る。あんころは絶妙な表現だと思う。佐古ちゃんはその言い方をやめるんだけど。

文章の雰囲気を、知ってる作家で表そうとするのイマイチかなあと思うんだけど(そもそも知っている作家が少ないので)、近いものをあげるならよしもとばななかなあ、と思う。話のつらさとしてはよしもとばなな以上なんだけど、全体的にほわっとあたたかく包まれているので、よしもとばななの話にずっと流れているような冷たさがなくて、読みやすかった。

ほんとうは私たちが手にした以外の部分が重要だったのだとしても、どこに何が書かれていたとしても、いちばん知りたいことに私たちは出会うんだと思う。 

 

森晶麿『ホテル・モーリス』

ホテル・モーリス

ホテル・モーリス

 

 わたしはめちゃくちゃ好きだったけど、どうも評判はイマイチみたい。森晶麿さんは『黒猫の遊歩あるいは美学講義』という本で第1回アガサ・クリスティー賞を受賞したらしくて、そっちを好んだ人から不評なのかなあという印象を受けた。

わたしとしては、なんかアメリカンというか、海外の文学っぽい軽さでめっちゃおもしろいし引っ掛けられたし読みやすいしキャラはわかりやすいしでかなり好きだったんだけどなあ。テンポがよくて、映画っぽくもあったかも。言われてみればラノベっぽいかな?と思わなくもないけど、第一印象としてはどことなく流れる村上春樹の気配と藤沢数希感のが強かったかなあ。でもべたつかないのは舞台がホテルだったりギャングが出たりとカタカナが多めだったことも関係してそう。

先日イラストレーターの中村佑介さんが装画のコツをツイッターで話していたのを見てからすごくその効果を感じるようになったんだけど、この本も装画がぴったりだなと思った。宮原葉月さんという方が描いたもの。

ほんと、いい意味で軽くてとてもわたしに合う本だったと思います。いま読み返しているところ。他の本も読んでみたい。執筆ペースがものすごいらしい。

 

森博嗣『僕は秋子に借りがある』

僕は秋子に借りがある 森博嗣自選短編集

僕は秋子に借りがある 森博嗣自選短編集

 

 はじめての森博嗣だったので自選短編集にしたんですけど、フォロワーさんがすすめてくれてたのがなくてこれにしたんですけど、完全に1冊目として読むべきじゃなかった……と思いました。短編集なのに日をまたいだの初めてです。キツかった……世にも奇妙な物語の中で後味悪いやつを選んでみましたよっ!どうですか!って感じの本でした……

それでもおもしろいというか、内容が気になってしまって珍しく全部読んだんですけど、胃にくる。とにかく胃にくる。後味悪くないのは13本中2本くらいだったかな……。ラストがヤバいとかではなくて、物語のど真ん中あたりにえっぐいのを投げ込まれて、消化しきれないままなんか綺麗な文章であっさり終わっておい!おいっ!てなる感じでした。お前それだけでフォローできてると思ってるのか……?と思った

そしてなんか視覚的にも圧迫されたなあと思う。行をかえるのがすごくランダムというか、めちゃくちゃ短いところもあればすっっごく長く一段落で続けているところもあって、死ぬ!呼吸ができない!と思ったりもしました。ほんと終始苦しかったので、次読むのがこわくもあるんですが他の本にもトライしてみたいなとは思う。くやしいので。

 

そんな感じでした。森晶麿さんを知れたのが今回一番の収穫かなあ。