とっちら

好きなことを取っ散らかします。

7月に始めてよかったこと

7月に始めてよかったことの話をします。ギターの話。

実家にほぼ使われてないベースとアコースティックギターがあるのは知ってて、以前も一度さわったことがあったんだけど、とにかく指の皮膚がへにゃへにゃだったので痛くて、弾くどころじゃないですねえと思ってすぐやめた。

それから数年が経った今年の7月末。夏休みで帰省していて、暇で、というか読むべき本があるんだけど全然読んでもわけわかんなくて辛かったので、他のことをしようと思った。そのときに思いついたのがギターだった。

わたしはそんなに積極的に音楽を聴くわけじゃないんだけど、多分そもそも聴覚が結構優位というか、聴覚において快不快を強く感じるほうである。となれば、よい音が出せるというのはすなわちよい音を聴けるということでもあるので、快なので、自分で快を生み出せるのはいいことだな〜と思って、さわってみることにした。

チューニングを合わせて、チャララーとさわってみると、それだけで楽しい。自分の持ち合わせている楽器たる声は、同時に複数の音が出せないので、和音が出るだけで楽しいのだ。あとアコギの音が好き。

昔ピアノをやっていたこともあるのだが、両手で違うことをするのは難しかった。足もつくし。中学のときはアルトサックスをやっていて、これは両手で1つのことをするわけなので、問題なかった。ギターも、まあ混乱することはあるものの、なんとなく位置関係を覚えられればそれほど意識しなくてすみそうだ。と言える程度には、1週間ちょっと、毎日数十分さわってたらなった。

音楽をしているときは、他のことをなんにも考えなくてよくていい。音のことだけに集中して、これでいいのかなとか、なんかしっくりこなかったらどこの指がずれているのかなとか、そもそもチューニングがずれてきて上ずっているんじゃないかとか。そういうことを考えたり、いい音だな〜きれいな和音だな〜とうっとりしているだけになる。

わたしの好きな、ギターを弾く人たちが、よくスピッツの楓を歌っていたのを思い出して、コード譜を検索する。あ、もしかしたらなにか大きなものを抱いていることになるから安心するのかもしれないな。ギターを弾くということは。わーすーれはー……しーなーいよー……と、コードが変わるたびに止まりながら少しずつ弾く。曲を聴くときに歌詞は意識されず、すべて音のかたまりとして感じているので、ああこんな歌詞だったんだ、と思う。

自分より大きな音の出る楽器は好きなのだが、なかでもアコギはわたしにしっくりくるようだ。少し小さめサイズのはずなのに、指が届かなかったりちぎれそうになったりするけど、1週間ちょっとでずいぶん音がきちんと鳴るようになった。

ほんとは、ギターが上手で弾くのが好きな人に横で弾いてもらって、こそこそ歌うようなことをしてみたいなーと思っていた。だけど、自分でやってみるとそれはそれでおもしろいし、前は無理だったことがどんどんできるようになって楽しい。1人で完結できて、でも十分楽しいと感じられるものをもつのはよいことだ。しかも音楽は複数人でもできるから、もっといい。

久しぶりに歌を歌ったら、高い音が全然出なくなっていてびっくりした。昔はソプラノだったのになあ。主旋律よりそうじゃないもののほうが好きで、アルトをやりたがっていたんだけど、今はもうアルトしかできないかもしれないな。

左手の人差し指から薬指までの先が、少しずつ丸く、かたく、つやつやとなっていく。ギターをたくさん弾いてる人、指紋は消えないんだろうか。痛みに弱いので、多少じんじんしても続けたいと思うような、楽しいことが増えて嬉しかった。

1人で「んっ?」「お〜〜〜?」「……え?」などと言いながら音を鳴らし、歌うのは楽しい。蛙やら蝉やらの鳴き声がうるさい家で、しばらく人も歌ってみようと思う。

村上春樹のエッセイを初めて読んだ。『やがて哀しき外国語』

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

2ヶ月ほど前に、Twitterで「翻訳をやってる人のエッセイを読んでみたい!」と言っていたところおすすめしていただいた本のひとつ。

1991年から2年にわたるプリンストン在住期間のことを書いた、1992-1993年の連載が文庫本になったもの。

 

村上春樹、小説はなんかキザでクサいシーンが多い印象で、「ッカーー!よくこんなこと言うわ!」みたいな気持ちになってしまい数ページで断念することが多かったのだが、以前短編小説を読んでみたらそれほど「ッカー!!!」にならずにすんだのもあって、さてエッセイだとどうなんだろう……と思い手に取った。

いざ読んでみると、まあとても面白い。わたしは歴史的な流れをつかむのがとても苦手なのだが、村上の視点・語り口に助けられて、25年ほど前のアメリカの様子がよく伝わる。「アメリカ」と一概にくくらずに、それぞれの地域の様子を書いているのもいい。わたしは村上に対して、都会的イメージというか、なんかハイカルチャーなものを好みそうなイメージを長編小説から勝手にもっていたのだが、むしろ堅苦しいものは苦手そうな様子もあり、(あっこちらの勘違いでしたね……)と思いました。

しかし、何について書くにしても、こうポーンと放った感じがあるというか、「自分の属する社会」みたいなものへのこだわりがあまり感じられない文章で、おおらか……おおらかでいいんだろうか。「へえ、そんなこともあるもんなんだなあ〜」みたいなスタンスを感じる。心持ちに余裕があるのだ。とぼけたような感じのところもあり、なんか面白い人なんだなと思った。

時代の雰囲気というべきものを、こういうふうに本から感じることができたのは初めてだったので、読んでみてよかったなと思っている。また、最後に載っている「『やがて哀しき外国語』のためのあとがき」という文章が非常によくて、先に述べたような村上のフワッと感が、どのような視点によって生まれているのかを理解する手がかりになっていると思う。

 

村上さんのところ』とかもちょっと読んでみたくなったな。おすすめいただいてありがとうございました! 次は他の方に教えてもらった、岸本佐知子さんのエッセイを読んでみようと思う。

 

村上さんのところ

村上さんのところ

 
村上さんのところ コンプリート版

村上さんのところ コンプリート版

 

 

人生を物語にすることにあまり興味がない、あと『質的社会調査の方法』

人生を過度にロマンティックにすることに興味がない。物語らしくすることに興味がない。そのことについて、もしかして照れのようなものがそうさせているのかなと思っていたが、おそらくそうではない。物語にしようとしなくても、勝手に物語になってしまうのに、なにをわざわざやっているんだ、と感じているのだと思う。

 

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

質的社会調査の方法 -- 他者の合理性の理解社会学 (有斐閣ストゥディア)

 

岸政彦ほか『質的社会調査の方法──他者の合理性の理解社会学』は、本屋に行ったときに同行者が話題にあげたことで知った本だ。わたしは急遽社会学をやることになったというのもあり、ぜんっっっぜん基礎知識がないなーと感じていたので、このたび読んだ。

 

内容は、そもそも質的調査とはなんなのかについて触れたのちに、フィールドワーク、参与観察、生活史調査について、それぞれの章を担当する学者が、自分の研究内容を交えつつ紹介するというものであった。具体例のある方法論といった様子(タイトルに「方法」とあるのだからそれはそう)。

フィールドワーク担当の丸山里美氏は女性ホームレス、参与観察担当の石岡丈昇氏はマニラのボクサー、岸政彦氏は沖縄史についての研究をそれぞれ例として出しているので、ちょろっとそのあたりに興味があると読み進めやすいかもしれない。でも全体的に配慮があってすごく読みやすいですよ(=読んでて不快になりにくいと思いますよ)。わたしは慎重な文が好きなので、1冊通してすごく好きだった。

 

一番好きだったのは岸氏の担当する生活史の章で、わたしは生活史にすごく興味があるな〜。ちょっと紹介しますね。

 

生活史調査について、この本では以下のように定義されている。

生活史調査とは、個人の語りに立脚した、総合的な社会調査である。それは、ある社会問題や歴史的事件の当事者や関係者によって語られた人生の経験の語りを、マクロな歴史と社会構造とに結びつける。語りを「歴史と構造」に結びつけ、そこに隠された「合理性」を理解し記述することが、生活史調査の目的である。(p.156)

この定義が章の最初と最後にあって、最初は「ふ〜ん?」という感じだったのが最後には「なるほどね……」となっている。構成がすごくいいんだろうな……。

他者の合理性、わたしは結構大切にしたいな〜と思っている……というよりも、どうしても無視ができなくて、正直に言えばちょっと困っているものでもある。わたしにとってはよくわからないことであっても、誰かにとってはすごく合理的なんじゃないか、と思うと、なかなかうまく自分の意思を表明できない。自分も同程度に「合理的」なはずだから、気にしなくていいと思うんだけど。まあわたし個人の話についてはいいです。

 

最近、社会学ってなんなのかな〜というか、なんになるのかな〜みたいなことを思うことがあって。だって後からしかできないですよね、社会学は。意味のない批評みたいなのになってしまうのやだな〜とかモヤモヤしていたんですが、岸氏は社会学とは……みたいな話も書いてくれていた。

こうした、人びとの行為の背景にある、さまざまな事情や経緯、構造的条件や制約を記述し、そしてその行為がどのようなプロセスで選択されたのか、ということを理解することが、社会学のひとつの仕事です。そして、人びとがその生活史においてどの道を選択して、それをどのように語るか、ということを丹念に拾い上げることによって、無理解が生む「自己責任論」を解体することが、社会学の遠い目標のひとつである、と考えることができます。( p.236)

なるほどね〜でした、たしかにね。これは普天間基地周辺の、爆音がひどいところに住んでいる人の生活史を聞き取った、という流れのところに書いてある部分なので、ぜひ本を読んでみてくださいね。

わたしはあんまり「ただ記述すること」には価値を感じていなかったのだが(それは歴史みたいな縦の流れにあまり興味や実感を持てないということも原因かもしれない)、記述されることで初めて発見され、理解されるものというのもあるのかもしれないなと改めて思いました。しかし社会学のよくわからないうさんくささみたいなのはどこから生まれているのだろう、そう感じているのはわたしだけではない気がするんだけど(本書とはまったく関係ないです)。

 

そんで、冒頭の文章に戻るんですけど。わたしはわざと物語にしなくとも、結局人生というものは物語になってしまうものなんだろうなと思う。で、その物語の背景に、けしてメインではないけれど社会というものはある。

わたしは社会そのものにはあまり興味がなくて(実態がつかめず、成文化されてない雰囲気が支配するものも大きくてよくわからないから)、ある個人がどうなのかということのほうが圧倒的に興味があるな〜ということに、社会学に進んでから気づいてしまったのだが、生活史調査というものは、かなり自分の興味の持ち方に近いものがあるな〜と思ったのでした。

調査方法というものは手段であって、当然調べたい対象や目的によって適切なものを選ぶべきなわけですが、そういうふうに興味がもてたのはいいことだったと思う。参考文献とは別に、ブックガイドも推薦文つきで紹介されててそれも嬉しい。

あまりにも文章を書いてないなと思ったので久しぶりに書きました。興味があればぜひお近くの図書館などでも。2016年12月発行、有斐閣の本です。

 

有斐閣ストゥディアシリーズいいな、2013年刊行らしいので、わたしが高校生の頃にはなかったということだ。こういうのを早いうちに読めると、進路決定にも役立つかもしれませんね。いいな。どんどんいい世界になってほしい。

 

とにかくやれの本『できる研究者の論文生産術──どうすれば「たくさん」書けるのか』

読んだのでメモ。 

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

 

背景

わたしは研究者ではないしとりあえず卒論が書ければいいだけなのだが、好きなツイッターの人が2人以上ツイートしたりブログに書いたりしていたので読んだ。

中身

とにかくやれの本。書く時間を日程に組み込めそしてやれ。その時間は書くためのあらゆる準備をしてもいい。言い訳はナシ。具体的に目標数値を設定したり進行状況を記録したりせよ。仲間もいるといいから毎週進捗確認し合うグループを作れ。

あとはすっきりさせるための文体アドバイスと論文項目の内容と決め方、本の書き方などが書かれている。

感想

たしかにやらなきゃいけないことをやるのにはぴったりの方法っぽい。著者は心理学者で、こういう書き方したほうが断然書けましたっていう実験結果などもちょこちょこ挟んでくるので納得せざるを得ない感じにしていて強い、親切。

自分は一気書きのクセがあり、3500字ぐらいまではそれでまあまあいけるけどさすがにそれ以上はぐちゃっとなるなと思っていたのでとりあえずやってみようと思う。進行状況を表で管理するのとか、多分それ書きたいがために書いたり読んだりするのも進めると思うのでよさそう。

論文の型がひとつわかったので、他のと比較しつつこれっぽい感じでいけばできそう。フォーマットわかるだけでかなり心強い。以上です。

3/24 Anti-Trench「キツネの窓」extra @四谷天窓.confort

わたしが言いたかった言葉は、わたしが聞きたかった言葉でもあるのだと知った。
 

 

ポエトリーリーディング×エレキギターの二人組ユニット、Anti-Trenchのワンマンライブに行った。わたしは普段ライブハウスに行かないし、詩もほぼ読まない。だからこそ、90分もひとつのユニットに集中できるこれはいい機会だなと思って行った。

 
朗読の向坂くじらは舞台に立つと、ひとりひとりと目を合わせはじめた。じっと見る。じっ……と。この文章から予想される3倍くらいの長さで、見つめている。笑みを湛えながら。
 
かちりと視線が合ったとき、「わたしはこの人に大切に思われている」「愛されている」とわかった。それだけで嬉しくて泣きそうになった。この人は、こうやって人と人が居合わせる、ほんのわずかな確率のことを知っている。そんなふうに思った。
 
わたしがとくに好きだったのは「ラヴレター」「パレード」だ。
 
何度も同じことを思い出して苦しんだっていい。雨の日に傘を持たずにずぶ濡れになってもいい。好きなこと、楽しいことをしてもいい。したいと思ったことをしていい。ただし、人に関係するときは正しく敬意を払って。
 
生まれてきて、よかったね。そこに条件はない。賢いからでも、足が速いからでも、かっこいいからでもない。条件はない、ただ、生まれてきてよかったね、なのだ。向坂くじらはそう告げる。
 
生きているだけで少しずつ終わりに向かっていくわたしたち。それは自分で早めることもできる。でも、向坂くじらはそれをとめる。その風を、まだそのからだにとどめておいてほしいと伝える。そして、そう願う自分のことをうらんでほしいと言う。なんと広い広いやさしさだろうか。
 
向坂くじらは壇上にいる。しかし、けっして上には立たない。与えられるのは「ゆるし」ではない、彼女の思いが手渡される。
 
広くて深くて愛のあるステージに、泣きながら帰った。わたしもひとつのビー玉だと思った。
 
(ギターの熊谷勇哉についても書きたいところだが、ほぼ顔が見えない位置にわたしが座っていたためにどんな様子だったのかがわからない。しかし、彼の音は添え物ではなくて、ステージはたしかに二人のものだと思った。浪曲でも三味線が自由に(即興で)演奏するが、少しそれに近いところもあるのかもしれないな、とあとから感じた。あれだけの音量がありながら、詩をけして邪魔しない、朗読をよりよいものに押し上げていくような力とゆるやかさがあって、かっこよかった。)
 
(なんとなくステージ上のお二人は「向坂くじら」「熊谷勇哉」だと感じたが、フリートークのときは「さきさかくじらさん」「くまがいゆうやさん」というかんじでかわいかったです)
 

わたしは普段あんまり目を見られるのが得意でないので、こんなこと滅多にないんですよ……。

あー、よかったな。

進路選択の話

www.kyotogakuen.ac.jp

この記事を読んで、あ〜こういうガイドがあれば進路選択にすごく役立っただろうなあ、自分の興味のある分野がなんという名前なのか見つけやすかっただろうなあと思い、自分の進路選択などについて振り返ったためメモしておく。

ツイート振り返り以上です。

本来このあたりは進路指導でどうにかされるとよいポイントなのだと思うが、わたしの場合はある程度なんにでも興味があった(理系の学問や歴史などはそもそも苦手だったので除く)のが残念な形で動いてしまって、浅い興味と深い興味を区別できていなかったように思う。そもそも「自分で選択できるものである」という意識がかなり薄かったということもある。

進路指導の内容も、模試などを受けた結果が確認されて、まあ成績悪くないね、このへん行けるんじゃない、だったので、うん。「これがやりたい」という感覚がわかっていなかったので困ったのは覚えている、行けるところはあるけどたどり着きたいところがないというか。それもあって、いろいろやれてあとから絞れる系のところを選んだ。3年目で絞ることになったけど、結局よくわかんなかったのとその頃には体調が悪くなってきていたのもあって、いろいろ支障が少なそうなところを選ぶという消極的な選択になった。思えば積極的な選択って全然したことなかったな。最近練習中なんだけど、こういうののやり方っていつ知るんだろう。こういうことこそ人生初期に教えてほしかったな。家庭教育の範囲なのかもしれない。

 

一連は別に愚痴ではなくて、どうやったらこの問題を解消できたのか?ということを考えるために書いている。

まず、自分の興味を自覚できること。それが一般的にどのように言い表されるかを理解すること。それを学びたいのであれば、具体的な方法を調べること。そして実践すること。この4つぐらいだろうか。

わたしの場合はまず1つ目でずっこけていた。おそらく「何がやりたい?」と聞かれてもそれはわからなくて、「どういうものをおもしろいと思う?」と聞かれることが必要だったように思う。そういえば中学生のときはなんで細胞が崩れていかずに手とかの形を保てているのか不思議だったな。それと人間がそれぞれ違うことに興味があった、自分と同じことも違うこともおもしろいと感じる。なんでそうなるんだろうと思う。でもこのへんのことは当時は気づかなかった、勉強するのは基本的に好きだったんだけど、クラスでの生活にいっぱいいっぱいだったしな。

わたしは様々な物事に対して、やってみることでどういうやり方をしたらいいのかが理解できて、その後それをうまく使えるようになっていくというタイプだと思うんだけど、まずお手本を見せてもらわないとうまくできないことが多い。逆にお手本さえあればそれを守ったり応用したりしながら多くのことができる気がする、真似は得意なので。でも、大事なことほど、すでに明らかになっている法則みたいなのが言われてない気がしている。みんな思ってるのに明文化されてない、みたいな。

「進路を決めましょう」とひとくちに言ってもそこにはいろんなやるべきことがある。まず「進路」ってなんなのか考えないとならない。職業?学校?学部?学問分野? それから、「決めましょう」。これは決めるプロセスがわかっていないとできないことである、少なくともわたしにとっては。そういえばめちゃくちゃ体験談とか読んだな。勉強の仕方はよく書いてあったけど、決定の仕方はうまく見つけられなかった。わたしがわからないのはそっちだったんだけど。「志望理由:興味があった」って、そもそも「興味がある」をどうやって判定するんだ。あ、これって数学の問題集の解説で省かれた途中式の部分がわからない気持ちですね、きっとね。

まあなんか難しいな、先生を責めることでも自分を責めることでもそんなにない気がするし。積極的な選択の機会がなかったからよくわからなかっただけだ。

人がどこでつっかかっているのか理解して、その問題を解消する援助ができるような人になりたいなといつも思う。すでに起きた遠回りについてはまあ得たものもあるしなって思うけど、防げる遠回りは防げたらいいですよね。おわりです。

「夢」のララランド

感想だけ書いてだいぶ満足したと思っていたんだけど、どうも整理しきれなかったので追加で書くことにした。これは作品のわたしなりの解釈なので、そのためにネタバレに次ぐネタバレをしますので、よろしくお願いします。
 
ええと、まず自分の立場から話し始めたほうがいいと思うんですが、わたしはそもそもそんなに映画に詳しくないし、ミュージカルっぽいのはgleeしか見たことがない。だから、ぽーんとララランドを見たことになるので、オマージュ部分はひとつもわからないし、映画史的な位置づけもわからない。ついでにセッションも見ていないので、彼についての前情報も一切ない。
 
わりとそういう真っ白な状態で見た結果、物語の筋がありきたりに思えるし、画面の華やかさや撮影技術、音楽の入れどころはすごいんだろうなと思うけど、劇場を出てみれば、ラストのセブズに入ってからは非常に好みだったが……という感じでした。ミアの行動も不可解だったりした。で、キャラクターの動きも物語にとって都合が良すぎるのでは?と思ったりしたんだけど、じゃあこの映画を通して一体何が行われていたのか?どういう文脈を持てばより楽しめたのか?というのが知りたかったので、考えた。自分が物語に入り込めなかったのが悔しかったというのもある。
 
そこで考えたのが、この映画を4種類の「夢」から見てみるということだ。ここでは、①セブ・ミアそれぞれの夢、②セブとミア2人の夢、③セブとミアの夢見心地、④この映画作品「LA・LA・LAND」という夢、という3つに分けて考えてみる。(映画館にパンフレットがなく手に入れてないので、本来の意図とは全然違うのかもしれない。だから、わたしが基本的には映画だけを見て、こういうとらえ方をしたらおもしろく感じたよ、という程度の話として読んでほしい。)
 
まず、①セブとミアの夢。セブは自分の店を持ちジャズを復活させる、ミアは女優として成功する、というのが個人の夢だろう。これは2人が出会う前からそれぞれが抱いていた、将来の希望という意味の夢。
 
その後、セブとミアは高速道路での嫌な出会い・ジャズバーでの再会・パーティー(?)での再再会を経て近づいていく。それぞれの夢を知り、惹かれ合う。わたしはこのあたりから、②「ともに夢を叶えて隣で幸せになる」というセブとミアの共通の夢(願望)ができたことになっているのではないか?と考えている。
 
セブとミアの2人によって作られたもうひとつの夢が、③2人の恋の「夢みたいな幸せ」、夢見心地。現実的にはちょっとありえないんじゃない?みたいなシーンは、だいたいこの夢見心地に起因する、あるいは夢見心地の状態を実際に映像化してみました、みたいなことだと思ってる。
 
そういえば、観てから知ったのだけど、la la landという言葉は監督の造語ではなくて、陶酔、恍惚、我を忘れた境地、現実離れした世界、酩酊状態、カリフォルニア・ロサンゼルスなどの意味をもつ俗語なんですってね。
 
で、ちょっとストーリーに話を戻すと、ミアが家族と電話してるのを聞いたのもあって、セブは現実的な仕事を選んでいく。ミアはそれを夢のための資金集めだと思っていたが、セブはだんだんその仕事をすることでミアとの生活を守るべきだ、みたいな考えになっていったっぽくて、言い争いになってしまう。このあたりで、②について二者間の解釈違いが生まれてきたというか……。セブは多分①以上に二人で得る幸せを求めるようになっていて(それは①を諦める言い訳かもしれないが)、一方ミアは②そのまんま、①あっての②だと思っている。もともとお互い夢を追っているのがきっかけで恋愛に発展したっていうところもあるんじゃないか。
 
で、その後ミアは一人芝居に失敗したと感じ、セブとの仲もよくないまま、①を諦めて帰郷する。しかしセブの電話にミア宛の連絡が来て、セブはミアに①を取り戻させるようにする。オーディションが終わり、以前③夢見心地の状態で訪れたところに二人で来て、①を追うなら②は難しいんじゃ……となる。みたいな流れで大体合ってますかね?
 
そして、時は流れて5年後。ミアもセブも①を叶え、偶然に再会する。そこでセブがあのテーマ曲を弾くと、すべてが巻き戻り、存在しなかった「もしこうしていたら」の世界が流れる。これは二人で全部うまくいくという③夢みたいな幸せの延長を想像したとカウントしてもいいんじゃないかなとわたしは思っている。ただ、この場合セブはこの店のオーナーになっていないのではないか?というのがあるので、ミアに寄ったある意味都合のよい夢だったのでは?とも思う。このifストーリー部分、あまりに華やかで幸福で、正直今までの流れがそんなにだなと思っていた分ぐっと来てしまって、あまり冷静に覚えていないんですよね……。
 
で、このifストーリーの後、ミアとセブは一言も交わさず、目だけ合わせて(合わせたよね?)ミアが店を出る。THE ENDという文字とともに物語は終わる。
 
で、ほんとに正直に言うとわたしは物足りなくて、いいとも悪いとも言えなくて、なんでこんな言ってしまえばよくあるストーリーの作品が絶賛?撮影技術がすごいから?と思っていた。最後まで物語に入り込みきれなかったので、入り込めたならもっと違ったのか?作品に込められたものを汲み取れていない、よき受け取り手になれなかったのでは?と思ったので、考えてみた。
 
そのとき、TLで見た1950年代風ララランド予告を見て、あまりにしっくり来ることに驚いた。で、ララランドという作品そのものが、④監督あるいはミュージカル映画(?)にとっての夢(願望)なのではないか?と思った。そこがかなりの意味をもつのだとしたら、その文脈を共有していないわたしがそんなに……と思ったのも頷ける。
 
デイミアン・チャゼル監督作品が普段からそういう傾向なのかは知らないが、この作品はとにかく誇張が激しいように思う(いいとか悪いとかではなく)。スポットライトが当たったり、恋の夢見心地で空を飛んだり。そういう誇張が、物語レベルだけではなくもうひとつ上の、制作レベル、見せ方、どうやって表現するかというhow、作品の外についても行われているのではないか。
 
夢を追っているときの華やかな衣装だったり、カメラワークだったり、なんか仕掛けレベルでもオーバー。で、「ミュージカル映画ってこうでしょ」みたいな、そのまんまやるところと、「従来のミュージカル映画じゃこうはしないよね」みたいな、少しずらすところがあるように思う(歌うタイミングとか、単なるイメージですが)。
 
わたしが気になっていたのは最初のほうでバーンと浮かぶタイトルと最後のTHE ENDで、これはこの映画すらひとつの④夢物語である、ということをはっきりさせているような気がした。「まさにってかんじのミュージカル映画作ってみました、でもこれも私の見た夢物語なんで」みたいな。映画が夢物語というのは多くの場合それはそうなんだけど、あえてそう提示することで、ある人は現実に向かい合ったり、ある人は夢を追うことを決めたり、なんか受け取り手の自由にできる範囲が広い気がするな……と思った。物語の受け取り方自体は結構限られてくる気がするのだが、そこから想起しうるものの幅が広いな、というか。
 
有名俳優は自分の選んだ道に納得できるかもしれないし、悩んでいる俳優はこれを見てどう歩むかを決めるかもしれない、俳優のファンは自分とセブを励ますミアを重ねるかもしれないし、うまくいかなかった恋の経験がある人はそれを思い出すかもしれない。ミュージカル映画に関わる人々は、古きよきミュージカルが忘れられていないことに安心するかもしれない。
 
わたしはこの作品を「夢」でくくったりして考えることでだいぶ納得できた。物語が好きっていうよりも、技法というか、やろうとしてるかもしれないこと?を想像したことで、評価されている部分が少しでもわかった気がする、というか。
 
物語については前エントリで書いたけど、ifルートじゃない今回の現実では、一応ミアがセブに店を開かせ、セブがミアを女優にした。見つけてくれる、自分を愛して夢を叶える方向に向かわせてくれるSomeoneはたしかにいたけど、ずっと隣にはいられなかった。②二人の幸せな夢は叶わなかったし③夢見心地ではいられなかったけど、①一人一人の夢は叶った。そういう④夢物語です。ってことだと思いました。だからそこの結末はわりと好きだったな、その結末に向かう材料をぶちこんだのかな?みたいな設定はあまり好みではなかったんですが、物語すらベタにするという誇張であるならば理解できるかも……。しかし、映画でこんなに「わたしこの作品のことわかってるのかな?」って思ったのは初めてで、まんまとたくさん考えてしまったな……。
 
あと、誇張っぽいなってことに気づいてからは、わたしはハリウッドザコシショウの誇張しすぎたモノマネで死ぬほど笑うようなタイプなので、なんかもうその「誇張がすごい」ってことだけでおもしろいなってなっちゃいました。以上です。