読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

とっちら

好きなことを取っ散らかします。

とにかくやれの本『できる研究者の論文生産術──どうすれば「たくさん」書けるのか』

読んだのでメモ。 

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

できる研究者の論文生産術 どうすれば「たくさん」書けるのか (KS科学一般書)

 

背景

わたしは研究者ではないしとりあえず卒論が書ければいいだけなのだが、好きなツイッターの人が2人以上ツイートしたりブログに書いたりしていたので読んだ。

中身

とにかくやれの本。書く時間を日程に組み込めそしてやれ。その時間は書くためのあらゆる準備をしてもいい。言い訳はナシ。具体的に目標数値を設定したり進行状況を記録したりせよ。仲間もいるといいから毎週進捗確認し合うグループを作れ。

あとはすっきりさせるための文体アドバイスと論文項目の内容と決め方、本の書き方などが書かれている。

感想

たしかにやらなきゃいけないことをやるのにはぴったりの方法っぽい。著者は心理学者で、こういう書き方したほうが断然書けましたっていう実験結果などもちょこちょこ挟んでくるので納得せざるを得ない感じにしていて強い、親切。

自分は一気書きのクセがあり、3500字ぐらいまではそれでまあまあいけるけどさすがにそれ以上はぐちゃっとなるなと思っていたのでとりあえずやってみようと思う。進行状況を表で管理するのとか、多分それ書きたいがために書いたり読んだりするのも進めると思うのでよさそう。

論文の型がひとつわかったので、他のと比較しつつこれっぽい感じでいけばできそう。フォーマットわかるだけでかなり心強い。以上です。

3/24 Anti-Trench「キツネの窓」extra @四谷天窓.confort

わたしが言いたかった言葉は、わたしが聞きたかった言葉でもあるのだと知った。
 

 

ポエトリーリーディング×エレキギターの二人組ユニット、Anti-Trenchのワンマンライブに行った。わたしは普段ライブハウスに行かないし、詩もほぼ読まない。だからこそ、90分もひとつのユニットに集中できるこれはいい機会だなと思って行った。

 
朗読の向坂くじらは舞台に立つと、ひとりひとりと目を合わせはじめた。じっと見る。じっ……と。この文章から予想される3倍くらいの長さで、見つめている。笑みを湛えながら。
 
かちりと視線が合ったとき、「わたしはこの人に大切に思われている」「愛されている」とわかった。それだけで嬉しくて泣きそうになった。この人は、こうやって人と人が居合わせる、ほんのわずかな確率のことを知っている。そんなふうに思った。
 
わたしがとくに好きだったのは「ラヴレター」「パレード」だ。
 
何度も同じことを思い出して苦しんだっていい。雨の日に傘を持たずにずぶ濡れになってもいい。好きなこと、楽しいことをしてもいい。したいと思ったことをしていい。ただし、人に関係するときは正しく敬意を払って。
 
生まれてきて、よかったね。そこに条件はない。賢いからでも、足が速いからでも、かっこいいからでもない。条件はない、ただ、生まれてきてよかったね、なのだ。向坂くじらはそう告げる。
 
生きているだけで少しずつ終わりに向かっていくわたしたち。それは自分で早めることもできる。でも、向坂くじらはそれをとめる。その風を、まだそのからだにとどめておいてほしいと伝える。そして、そう願う自分のことをうらんでほしいと言う。なんと広い広いやさしさだろうか。
 
向坂くじらは壇上にいる。しかし、けっして上には立たない。与えられるのは「ゆるし」ではない、彼女の思いが手渡される。
 
広くて深くて愛のあるステージに、泣きながら帰った。わたしもひとつのビー玉だと思った。
 
(ギターの熊谷勇哉についても書きたいところだが、ほぼ顔が見えない位置にわたしが座っていたためにどんな様子だったのかがわからない。しかし、彼の音は添え物ではなくて、ステージはたしかに二人のものだと思った。浪曲でも三味線が自由に(即興で)演奏するが、少しそれに近いところもあるのかもしれないな、とあとから感じた。あれだけの音量がありながら、詩をけして邪魔しない、朗読をよりよいものに押し上げていくような力とゆるやかさがあって、かっこよかった。)
 
(なんとなくステージ上のお二人は「向坂くじら」「熊谷勇哉」だと感じたが、フリートークのときは「さきさかくじらさん」「くまがいゆうやさん」というかんじでかわいかったです)
 

わたしは普段あんまり目を見られるのが得意でないので、こんなこと滅多にないんですよ……。

あー、よかったな。

進路選択の話

www.kyotogakuen.ac.jp

この記事を読んで、あ〜こういうガイドがあれば進路選択にすごく役立っただろうなあ、自分の興味のある分野がなんという名前なのか見つけやすかっただろうなあと思い、自分の進路選択などについて振り返ったためメモしておく。

ツイート振り返り以上です。

本来このあたりは進路指導でどうにかされるとよいポイントなのだと思うが、わたしの場合はある程度なんにでも興味があった(理系の学問や歴史などはそもそも苦手だったので除く)のが残念な形で動いてしまって、浅い興味と深い興味を区別できていなかったように思う。そもそも「自分で選択できるものである」という意識がかなり薄かったということもある。

進路指導の内容も、模試などを受けた結果が確認されて、まあ成績悪くないね、このへん行けるんじゃない、だったので、うん。「これがやりたい」という感覚がわかっていなかったので困ったのは覚えている、行けるところはあるけどたどり着きたいところがないというか。それもあって、いろいろやれてあとから絞れる系のところを選んだ。3年目で絞ることになったけど、結局よくわかんなかったのとその頃には体調が悪くなってきていたのもあって、いろいろ支障が少なそうなところを選ぶという消極的な選択になった。思えば積極的な選択って全然したことなかったな。最近練習中なんだけど、こういうののやり方っていつ知るんだろう。こういうことこそ人生初期に教えてほしかったな。家庭教育の範囲なのかもしれない。

 

一連は別に愚痴ではなくて、どうやったらこの問題を解消できたのか?ということを考えるために書いている。

まず、自分の興味を自覚できること。それが一般的にどのように言い表されるかを理解すること。それを学びたいのであれば、具体的な方法を調べること。そして実践すること。この4つぐらいだろうか。

わたしの場合はまず1つ目でずっこけていた。おそらく「何がやりたい?」と聞かれてもそれはわからなくて、「どういうものをおもしろいと思う?」と聞かれることが必要だったように思う。そういえば中学生のときはなんで細胞が崩れていかずに手とかの形を保てているのか不思議だったな。それと人間がそれぞれ違うことに興味があった、自分と同じことも違うこともおもしろいと感じる。なんでそうなるんだろうと思う。でもこのへんのことは当時は気づかなかった、勉強するのは基本的に好きだったんだけど、クラスでの生活にいっぱいいっぱいだったしな。

わたしは様々な物事に対して、やってみることでどういうやり方をしたらいいのかが理解できて、その後それをうまく使えるようになっていくというタイプだと思うんだけど、まずお手本を見せてもらわないとうまくできないことが多い。逆にお手本さえあればそれを守ったり応用したりしながら多くのことができる気がする、真似は得意なので。でも、大事なことほど、すでに明らかになっている法則みたいなのが言われてない気がしている。みんな思ってるのに明文化されてない、みたいな。

「進路を決めましょう」とひとくちに言ってもそこにはいろんなやるべきことがある。まず「進路」ってなんなのか考えないとならない。職業?学校?学部?学問分野? それから、「決めましょう」。これは決めるプロセスがわかっていないとできないことである、少なくともわたしにとっては。そういえばめちゃくちゃ体験談とか読んだな。勉強の仕方はよく書いてあったけど、決定の仕方はうまく見つけられなかった。わたしがわからないのはそっちだったんだけど。「志望理由:興味があった」って、そもそも「興味がある」をどうやって判定するんだ。あ、これって数学の問題集の解説で省かれた途中式の部分がわからない気持ちですね、きっとね。

まあなんか難しいな、先生を責めることでも自分を責めることでもそんなにない気がするし。積極的な選択の機会がなかったからよくわからなかっただけだ。

人がどこでつっかかっているのか理解して、その問題を解消する援助ができるような人になりたいなといつも思う。すでに起きた遠回りについてはまあ得たものもあるしなって思うけど、防げる遠回りは防げたらいいですよね。おわりです。

「夢」のララランド

感想だけ書いてだいぶ満足したと思っていたんだけど、どうも整理しきれなかったので追加で書くことにした。これは作品のわたしなりの解釈なので、そのためにネタバレに次ぐネタバレをしますので、よろしくお願いします。
 
ええと、まず自分の立場から話し始めたほうがいいと思うんですが、わたしはそもそもそんなに映画に詳しくないし、ミュージカルっぽいのはgleeしか見たことがない。だから、ぽーんとララランドを見たことになるので、オマージュ部分はひとつもわからないし、映画史的な位置づけもわからない。ついでにセッションも見ていないので、彼についての前情報も一切ない。
 
わりとそういう真っ白な状態で見た結果、物語の筋がありきたりに思えるし、画面の華やかさや撮影技術、音楽の入れどころはすごいんだろうなと思うけど、劇場を出てみれば、ラストのセブズに入ってからは非常に好みだったが……という感じでした。ミアの行動も不可解だったりした。で、キャラクターの動きも物語にとって都合が良すぎるのでは?と思ったりしたんだけど、じゃあこの映画を通して一体何が行われていたのか?どういう文脈を持てばより楽しめたのか?というのが知りたかったので、考えた。自分が物語に入り込めなかったのが悔しかったというのもある。
 
そこで考えたのが、この映画を4種類の「夢」から見てみるということだ。ここでは、①セブ・ミアそれぞれの夢、②セブとミア2人の夢、③セブとミアの夢見心地、④この映画作品「LA・LA・LAND」という夢、という3つに分けて考えてみる。(映画館にパンフレットがなく手に入れてないので、本来の意図とは全然違うのかもしれない。だから、わたしが基本的には映画だけを見て、こういうとらえ方をしたらおもしろく感じたよ、という程度の話として読んでほしい。)
 
まず、①セブとミアの夢。セブは自分の店を持ちジャズを復活させる、ミアは女優として成功する、というのが個人の夢だろう。これは2人が出会う前からそれぞれが抱いていた、将来の希望という意味の夢。
 
その後、セブとミアは高速道路での嫌な出会い・ジャズバーでの再会・パーティー(?)での再再会を経て近づいていく。それぞれの夢を知り、惹かれ合う。わたしはこのあたりから、②「ともに夢を叶えて隣で幸せになる」というセブとミアの共通の夢(願望)ができたことになっているのではないか?と考えている。
 
セブとミアの2人によって作られたもうひとつの夢が、③2人の恋の「夢みたいな幸せ」、夢見心地。現実的にはちょっとありえないんじゃない?みたいなシーンは、だいたいこの夢見心地に起因する、あるいは夢見心地の状態を実際に映像化してみました、みたいなことだと思ってる。
 
そういえば、観てから知ったのだけど、la la landという言葉は監督の造語ではなくて、陶酔、恍惚、我を忘れた境地、現実離れした世界、酩酊状態、カリフォルニア・ロサンゼルスなどの意味をもつ俗語なんですってね。
 
で、ちょっとストーリーに話を戻すと、ミアが家族と電話してるのを聞いたのもあって、セブは現実的な仕事を選んでいく。ミアはそれを夢のための資金集めだと思っていたが、セブはだんだんその仕事をすることでミアとの生活を守るべきだ、みたいな考えになっていったっぽくて、言い争いになってしまう。このあたりで、②について二者間の解釈違いが生まれてきたというか……。セブは多分①以上に二人で得る幸せを求めるようになっていて(それは①を諦める言い訳かもしれないが)、一方ミアは②そのまんま、①あっての②だと思っている。もともとお互い夢を追っているのがきっかけで恋愛に発展したっていうところもあるんじゃないか。
 
で、その後ミアは一人芝居に失敗したと感じ、セブとの仲もよくないまま、①を諦めて帰郷する。しかしセブの電話にミア宛の連絡が来て、セブはミアに①を取り戻させるようにする。オーディションが終わり、以前③夢見心地の状態で訪れたところに二人で来て、①を追うなら②は難しいんじゃ……となる。みたいな流れで大体合ってますかね?
 
そして、時は流れて5年後。ミアもセブも①を叶え、偶然に再会する。そこでセブがあのテーマ曲を弾くと、すべてが巻き戻り、存在しなかった「もしこうしていたら」の世界が流れる。これは二人で全部うまくいくという③夢みたいな幸せの延長を想像したとカウントしてもいいんじゃないかなとわたしは思っている。ただ、この場合セブはこの店のオーナーになっていないのではないか?というのがあるので、ミアに寄ったある意味都合のよい夢だったのでは?とも思う。このifストーリー部分、あまりに華やかで幸福で、正直今までの流れがそんなにだなと思っていた分ぐっと来てしまって、あまり冷静に覚えていないんですよね……。
 
で、このifストーリーの後、ミアとセブは一言も交わさず、目だけ合わせて(合わせたよね?)ミアが店を出る。THE ENDという文字とともに物語は終わる。
 
で、ほんとに正直に言うとわたしは物足りなくて、いいとも悪いとも言えなくて、なんでこんな言ってしまえばよくあるストーリーの作品が絶賛?撮影技術がすごいから?と思っていた。最後まで物語に入り込みきれなかったので、入り込めたならもっと違ったのか?作品に込められたものを汲み取れていない、よき受け取り手になれなかったのでは?と思ったので、考えてみた。
 
そのとき、TLで見た1950年代風ララランド予告を見て、あまりにしっくり来ることに驚いた。で、ララランドという作品そのものが、④監督あるいはミュージカル映画(?)にとっての夢(願望)なのではないか?と思った。そこがかなりの意味をもつのだとしたら、その文脈を共有していないわたしがそんなに……と思ったのも頷ける。
 
デイミアン・チャゼル監督作品が普段からそういう傾向なのかは知らないが、この作品はとにかく誇張が激しいように思う(いいとか悪いとかではなく)。スポットライトが当たったり、恋の夢見心地で空を飛んだり。そういう誇張が、物語レベルだけではなくもうひとつ上の、制作レベル、見せ方、どうやって表現するかというhow、作品の外についても行われているのではないか。
 
夢を追っているときの華やかな衣装だったり、カメラワークだったり、なんか仕掛けレベルでもオーバー。で、「ミュージカル映画ってこうでしょ」みたいな、そのまんまやるところと、「従来のミュージカル映画じゃこうはしないよね」みたいな、少しずらすところがあるように思う(歌うタイミングとか、単なるイメージですが)。
 
わたしが気になっていたのは最初のほうでバーンと浮かぶタイトルと最後のTHE ENDで、これはこの映画すらひとつの④夢物語である、ということをはっきりさせているような気がした。「まさにってかんじのミュージカル映画作ってみました、でもこれも私の見た夢物語なんで」みたいな。映画が夢物語というのは多くの場合それはそうなんだけど、あえてそう提示することで、ある人は現実に向かい合ったり、ある人は夢を追うことを決めたり、なんか受け取り手の自由にできる範囲が広い気がするな……と思った。物語の受け取り方自体は結構限られてくる気がするのだが、そこから想起しうるものの幅が広いな、というか。
 
有名俳優は自分の選んだ道に納得できるかもしれないし、悩んでいる俳優はこれを見てどう歩むかを決めるかもしれない、俳優のファンは自分とセブを励ますミアを重ねるかもしれないし、うまくいかなかった恋の経験がある人はそれを思い出すかもしれない。ミュージカル映画に関わる人々は、古きよきミュージカルが忘れられていないことに安心するかもしれない。
 
わたしはこの作品を「夢」でくくったりして考えることでだいぶ納得できた。物語が好きっていうよりも、技法というか、やろうとしてるかもしれないこと?を想像したことで、評価されている部分が少しでもわかった気がする、というか。
 
物語については前エントリで書いたけど、ifルートじゃない今回の現実では、一応ミアがセブに店を開かせ、セブがミアを女優にした。見つけてくれる、自分を愛して夢を叶える方向に向かわせてくれるSomeoneはたしかにいたけど、ずっと隣にはいられなかった。②二人の幸せな夢は叶わなかったし③夢見心地ではいられなかったけど、①一人一人の夢は叶った。そういう④夢物語です。ってことだと思いました。だからそこの結末はわりと好きだったな、その結末に向かう材料をぶちこんだのかな?みたいな設定はあまり好みではなかったんですが、物語すらベタにするという誇張であるならば理解できるかも……。しかし、映画でこんなに「わたしこの作品のことわかってるのかな?」って思ったのは初めてで、まんまとたくさん考えてしまったな……。
 
あと、誇張っぽいなってことに気づいてからは、わたしはハリウッドザコシショウの誇張しすぎたモノマネで死ぬほど笑うようなタイプなので、なんかもうその「誇張がすごい」ってことだけでおもしろいなってなっちゃいました。以上です。

『ラ・ラ・ランド』感想

ララランド、いろんな方の感想をあまりにも読みたかったので、でもその前に自分の感想をもちたいなと思ったので、観てきました。
 
結論としては、わたしは物語自体はそんなに好みではなかったんだけど、その仕組みとか仕掛け、「映画」としてのこれらについては素直にすごいと思った、というかんじです。夢を追っている人、達成した人にいろんなものを突きつける映画だけど、同時に励ましもしていると思う。だから、わたしのための物語ではなかったけど、誰かにとって最高の物語であろうことがわかる、みたいなことを思っています。もしかしたら10年後のわたしにはありがたい物語になってるかもしれない。
 
 
以下ネタバレありで、忘れないうちに思ったことなど!
 

・音楽

ジャズ詳しいわけじゃないけど好きなのでよかった……。いやいや弾いてる荒いクリスマスソング以外はどれもいいなと思っちゃった、もちろんその「いいな」の方向性は様々だけど。だって、友達に誘われたバンドでの音楽もかっこよかったよねえ。
 
Someone in the crowdだけ先に知ってたんだけど、この映画、歌詞だけは先に見ておく……というか内容を把握しておくのがいいような気がする。結構映像が派手なので、わたしはどうしても歌詞に集中するのが難しくて、それによってとりこぼしたこの映画のよさがかなりあるように思う。ミュージカル映画における歌詞ってまあ、ネタバレにも近くなってしまうんだけど、ストーリーについての知識がなければこんな歌があるんだな、どんなシーンで使われるのかなって想像するのにとどめることもできるかもしれないので、個人差あると思うけど、同時に音・映像・歌詞の意味を処理するのが得意でない人は、先に知っておけるものは知っておいたほうがいいのではないかなという気がする。知ったからといってつまらなくなるような音楽ではないし……。
 
一番好きだったのは、ミアが帰郷するときにSomeone in the crowdがインストとして流れるとこかな。ルームメイトたちと準備するシーンで歌詞の字幕見たときに、あ、こういうかんじになるんだな、それならもっとつらいところで流れるのもありだな〜と思ってたら、見事にかかってくれて感動した。この曲とミアとセブのテーマ、City of Starsの3つがメインの曲になるんだけど、それがいろんなアレンジでところどころに出てきて、交じり合っていたりする、そういうのはたまらなかったです。鳴ってほしいな〜って思うところできちんと音楽が流れてくれる、そういう安心感があった。「おっ、いいねえ〜、待ってました!」って思いました。当然ながらエンディングの華やかな、幸せな音楽も最高だった……。最初と最後ずっと観てたい。
 

・言葉(セリフ)

わたしはこの映画を英語音声英語字幕で見たいと思った!!なぜなら甘いセリフを日本語で聞くの、苦手っぽくて……。英語の表現のままならイケてるな〜ぐっとくるかもな〜って思った言葉が、母語で理解が楽な字幕の表現で頭の中からかき消されてしまって、ちょっと残念だった……。そういうのもあって、途中からは英語で聞き取れるだけ聞き取りながら字幕を見るかんじになってしまって、バタバタしちゃった。英英で観られるならまた観ます。
 
特にイヤミっぽいやりとりがすごくよかったんだよな〜。最初のほうの全然話を聞かないミアに対するセブの「宇宙から来たのか?(言葉通じないの?)」とか、あとは部屋で喧嘩になるシーンの「俺ならできる」「あなたはね」みたいなとこ、セブがI can...って言ったのに対してミアが“I” can、ってIを強調して返すの、そういうのめっちゃよくないですか?「俺はできる」「俺なら、ね」みたいなことですよ、わたしはそういうとこへのこだわりが強いので、字幕がより多くの人に理解してもらえるようになってるということはわかりつつも、もったいない〜!と思いました。英英で観るね。
 

・画面

カメラぐいんぐいん動いてましたね!ぐーるぐーると言ったほうが適切か。わたしはちょっと目が回りそうになってしまったな……。撮り方が多分単純にあんまり好みじゃなかったんだと思う。でもこれは先日「たかが世界の終わり」を見たせいかもしれない(アップが多くてビシッビシッというかんじだった)。
 
しかし華やかな色彩は本当に素敵でしたね。わたしはあまりそういう華やかさに憧れがないんだけど、それでも美しいな〜と思った。高速道路のシーンとかもすごかった……大変だろうに……。ミュージカル映画に詳しくないので全然わからなかったんですが、様々なオマージュがあるということで、そういう人にはたまらないだろうな〜!と思いました。他のミュージカル作品も観てみたくなった。
 
画面として好きなのはそういうとこだった、オープニングと、社交に出かける女の子たちと、ラストのifストーリー部分。ifのとこ、ほんと大変だっただろうな〜!しかし素敵だったな〜!夢みたいでしたね。夢なんだけど。
 

・物語

これに関してあんまりうまく言えないというか、マイナスなところが結構多かったんですけど、演出について考えることであとから納得したんで、その解釈もあとで述べるんで、よろしくお願いします。
 
正直よくある物語というか、なんか、現実にはないんだけど物語的にはよくあるというか……言ってしまえば物語にとって都合がよすぎるみたいなことをまず思ったんですよね。離れることになったけどどっちも夢を叶えるというのもかなり都合がいい。しかしこれは現実的にありえない、という意味ではない、そういう人生の人も実際にいると思う。だからそれはそんなに気にしないことにしたんだけど、それよりも、上映中の映画館でスクリーンの前に立って彼を探すか?とか、そういうことが気になったな……。あとは天文台で二人で浮かぶシーンは「おっまじか〜笑」みたいになっちゃいました、ロマンティック度が高すぎてついていけず、ギャグみたいに見えちゃった……。ロマンティック苦手なのかもしれないです、仲違いし始める後半まで、なんか眺める程度でしか見られなくて残念だった(わたしも没入したかった)。
 
逆に、ラブなロマンティックさの減る後半からはすごく楽しめた。ラスト、ミアがあのロゴを見つけるところからはふつ〜にドキドキしてしまった、出てきたセブ、そしてあのテーマ曲。ぐわっと戻る時間、あったかもしれない物語、このあたりはあまりにも美しくて両手で頬をおさえながら観てました、「なんてことなの!」みたいな気持ち。あまりにも色彩豊かで、つい涙が出てしまったし。
 
わたしはああやって違う道を歩いた2人が、再会して、「もしこうなってたら」をぶわーっと考えてしまって、それはすごくすごく幸福で華やかで、理想で、それでもこっちを選んだんだから今の現実があるんだよね、残念だけど、それぞれやっていこうね。という別れだと思ったので、すごく優しい映画だなと思いました。選んだものと選ばなかったもの、そしてもしかしたら選択の余地すらなかった自分では選べないもの、それら全部含めて今なんだよ、ということはすごく現実だなあと思うから。
 
しかも、あのifストーリーはセブとミアがキスしなきゃ始まらないわけで、そんなことは起きるはずがないんですよね。それはあの時点での彼らの性格すらひっくり返さないと起きない、つまりそれまでにあったいろんなことが、ひとつでもいいから違ってなきゃいけなかったわけで。どうしようもなかったんだよね。残念だけど。ってことがわかるシーンだったと思います。だったら、やっぱりこの結末が一番のハッピーエンドだった、そういうことなんじゃないですかね。
 
正直劇場出たときは「なんか……うーん……?」くらいのかんじだったんだけど、あとから演出について考えてたら急に納得がいきだしたので、その話をここからします。長いね……。
 

・演出:比喩表現を実際にやってみせるという誇張

わたしがよくわかんないなと思ったロマンティックなシーン、これだなと思うんですよね。というか、この映画全部がもしかしたらそうなんじゃないかな。誇張がすごい。色彩の明るさも含め大げさですよね、考えてみたら。ここでは自分がひっかかったシーンを例に挙げて考えてみようと思います。
 
まず、ミアが上映中の映画のスクリーンの前に立ってセブを探すシーン。これわたしの感覚ではありえないんですけど、女優を目指すミアがそんなことするのか?っていうのちょっと疑問だった。でも、これ比喩を実際にした誇張だと思えば納得がいくんですよね。「どこにいたって、どんな手を使っても探してみせる」じゃないですか? で、なんでこんなことができるかといえば、多分ミアにとってセブは待望の「Someone」だから。運命の人を見つける・見つけてもらうためには前に出なきゃいけない。そういう、多くの場合比喩表現になるようなことを実際にやったシーンなのかなと思う(補足ですが、Someoneは恋人というよりも、夢に向かわせてくれる人という意味のSomeoneだよなと思っています、別エントリで書きたい)。
 
もう1個、天文台で重力がなくなって浮かぶやつ、あれも恋のふわふわする気持ちとか、「あなたとなら空だって飛べそうよ」「星とダンスしよう」みたいな、そういう比喩が実現したらどうなるのかってことだと考えれば納得できる。
 
ついでにオーバーさのあるとこで言えば、セブが友達に誘われたバンドのライブではめちゃくちゃ人がいて、ミアの一人芝居はスカスカの劇場だった。あれ、ほんとにそうかっていうこと以上に、「こう思える」が大事だったんじゃないかなという気がするんですよね。初めての一人芝居にしては劇場が大きいのでは?って気がしてたんだけど、それもそういう誇張表現のためかもと思えば納得がいく。
 
スポットライトもそうじゃないですかね、バーでの演奏中、オーディション中に自分だけの世界に入って、光を浴びる。多分この光を当ててるのは本人だと思うし……。そういう、「こう思われる・感じる」という比喩を実際に表す演出だったと考えると、あれだけロマンティックになるのも理解できる。そういうやり方でわたしはこの映画を理解しました。これらの誇張表現はセブとミアの夢見心地、陶酔状態(La・La・Land)を表したもの。
 
さらに言えば、最初のタイトルと最後のTHE END。これもはじまりとおしまいのわかりやすすぎる幕開け・幕引きだと思う。ある物語がはじまるよ〜、おわりだよ〜という合図。オーバーですよね。
 

そこで、この映画自体も、事実ではないという点でひとつの夢物語だと考えることにしてみた。それなら作品上の都合がいいシーンも納得がいくんです、だってこれは監督の見た・見せた夢だから。そういう意味では観客のララランド状態にすら始まりと終わりを示して、自分の現実に取り組むことを促したんじゃないかな、と思っている。それなら、わたしが「彼らの物語の部外者だな〜」と感じていたことまで計算されていたのかもしれない、みたいな気持ちになりました。実際誰かの物語では、その誰か以外は脇役だしね……。

 
わたしはこの作品について、3つの「夢」というものから整理できるんじゃないかな〜と考えてるんですが、それはまた今度書けたら書く。そのときに歌の解釈もまじえたい、ミアとセブの距離が縮まるのはまわりがcrowdedなときほど(車同士→バー→パーティ会場)だったんじゃないかとか、そういう話もしたい。ではまた!

第三次予選を前にして(恩田陸『蜜蜂と遠雷』中間感想)

カザマジンがやるのは生まれる前の音楽、楽譜になる前の音楽、作曲家の頭の中で書き出される前の音楽、世界にもとから存在していた音楽、純度が高い、自分の中にあるもの、知っているものを思い出させる音楽。

なぜかテーブルクロス引きを思い出す。彼がテーブルクロスを引くと、その上にのっていた食器たちが踊りだす。奇術、魔法、手品。彼の演奏への熱狂や嫌悪はそういうものではなかろうか。知っているものが形を変えてあらわれること、しかもその姿がより「本物」らしく見えてしまうこと。

 

それはマサルと似ているが、マサルの場合は主体としての自分が確実にある。きっと「マサルの(曲名)」にしかなりえない。カザマジンはピアノを使って音楽を誘い出す、解き放つ、本来の姿を引き出す。マサルは熱、太陽。カザマジンは透明。

 

エイデンアヤは? エイデンアヤのイメージは終始水だ。彼女は彼女のまま姿を変える。それはきっと「エイデンアヤの(曲名)」ではない。エイデンアヤは見守る、あやつる、導く?

マサルほどの主張はなく、しかしどうにでも姿を変えられるという個性は彼女のものだ。器。あるようなないような。全てを受け止める、そして流れ出す。

 

明石、彼は大人だ。あふれるものがあっても大人だ。見ている世界が全然違う。とびぬけた特別ではないがじゅうぶんに特別なひとり、そして、特別ではないということは、素晴らしくないということではないと教えてくれるひとり。

 

恩田陸蜜蜂と遠雷』を読んでいる。第三次予選が始まる。すべて読み終わったら、イメージの共有について考えてみたい。

蜜蜂と遠雷

蜜蜂と遠雷

 

 

返礼もしくは反撃

f:id:sharuka0:20170131175809j:plain

最初からきっと合うと思っていた、言葉のつかいかたが似ていたから。国語辞典が同じひとだ、と思った。
話してみたら、すべて意見が一緒というわけでは全くなかった。好きなものも違う。でも、わかりあえると思った。

 

カルテット2話で、別府が偶然と運命について語っていたのを思い出す。

 
「巻さんは、運命ってなんだと思います?」
「たとえば、会社の同僚と休みの日にばったり会ったら、それって運命ですか?」
「それがきっかけで2人が結婚したら?」
 
「俺は、偶然を運命に変えるチャンスを3回も逃したんだ。」
 
 
ある言葉から連想する音楽が同じだったこと。ほしかった本を贈ってくれたこと。人に「話してみるといいよ」とすすめられたこと。そもそも、なぜかうっかり出会ったこと。会ったことないんだけど。
 
 
ceroのOrphansを聴いてみる。別の世界では2人は姉弟だったのかもね。神様の気まぐれも何度か、何度も、作用したことだろう。
でも、偶然に終わったかもしれないものをそうしなかったのは、紛れもないわたしたちで、これは小さくて大きな、信頼や親愛というかたちをとった運命だと思う。
 
(※これは、ある友人のエントリに対する勝手な返礼であり、反撃のつもりです)