とっちら

好きなことを取っ散らかします。

レジリエンスが低い人のレジリエンスの高め方 平野真理『レジリエンスは身につけられるか──個人差に応じた心のサポートのために』

 

 

卒論でレジリエンス(回復力などとよく訳される)に関連するテーマを選んだので、レジリエンスについても多少は勉強したつもりでいるのだけど、ずっと気になってたのは「レジリエンスを高めるぞ」というときにポジティブ思考や社交性がすごく必要なんじゃないかということだった。他人とのつながりを絶ってはいけないということ、理解はすごくできるが、多分レジリエンスの低い人はそれが難しいのではないか?ポジティブ思考なんてもってのほかなのではないか?という気持ちがあった。

そんな中でこの本を読んでみると、まずレジリエンス要因(レジリエンスを導く性質)を遺伝に関係する資質的なものと発達過程で身につける獲得的なものとに分け、その2つのもつ効果はどう違うのかなどについても述べつつ、資質的なレジリエンス要因を持たない人のサポートがどう行われるとよいかについて書いてあった。

すごーく雑なまとめ方をすると、資質的レジリエンス要因が少ない人は、あるリスクをガードしづらくて人生ハードモードっちゃハードモードなんだけど、特有の強さも持っているし、他者のサポートを得つつスキルを身につけることでやっていけるようにはなるよ、支える側の人は彼らに対してまず聴く、それから助言等に進むといいよ、という話だったと思う。

 

資質的要因は、楽観性*1、統御力*2、社交性*3、行動力*4から構成されていて、遺伝的な影響が強い。これらは「ストレスや傷つきをもたらす状況下で感情的に振り回されず、ポジティブに、そのストレスを打破するような新たな目標に気持ちを切り替え、周囲のサポートを得ながらそれを達成できる力と関係していると考えられる(p.72)」。あったらめちゃくちゃ有利じゃん。

一方、獲得的要因は、問題解決志向*5、自己理解*6、他者心理の理解*7から構成されていて、遺伝的影響が少ない。これらは「自分の気持ちや考えを把握することによって、ストレス状況をどう改善したいのかという意志を持ち、自分と他者の双方の心理への理解を深めながら、その理解を解決につなげ、立ち直っていく力と関係していると考えられる(p.72)」。うわーこれも必要そう。

 

で、このように身につけにくいもの4つと身につけやすいもの3つがわかったわけだけど、じゃあこの2種類のレジリエンス要因は機能が一緒なのか?後者を身につけるだけで十分なのか?というのが疑問になる。

ここで、「心理的な敏感さ」をリスクとして考える。獲得的要因はリスクがあっても身につけやすい。だけど、これによって心理的敏感さを補えるというわけではないっぽく、心理的敏感さというリスクの防御推進には、資質的要因の影響が強いらしい。つまり、2種類のレジリエンス要因が導くレジリエンスは性質が違う。それはすなわち、なにかあったときに、そこから立ち直るあり方が違うということだ。

 

さらに具体的に、どういうふうにその立ち直り方は違うのか?と考えてみる。ここで行われた調査からは、傷つきへの対処法として、積極的コーピング(積極的に問題から離れる・積極的に問題に向き合う)と消極的コーピング(考えない・その場に留まる)が見出される。さらに、周囲のサポートとして、居てもらうサポート・聴いてもらうサポート・教えてもらうサポートの3つが見出される。

資質的要因得点の多い人は、積極的に問題に向き合う傾向があり、低い人はその場に留まる傾向が見られた。また、資質的要因得点が低いが獲得的要因得点が高い人は、教えてもらうサポートを得ながら積極的コーピングも行っていると考えられるが、資質的要因得点も獲得的要因得点も低い人は、聴いてもらうサポートを用いる傾向が見られた。以上のことから、資質的要因の少ない人は、まずは聴いてもらうサポートで消極的コーピングを支え、教えてもらうサポートを求めていけるように、問題に向き合う動機づけや援助要請能力を育むことが必要だと考えられる。

で、消極的コーピングって一見あんまりよろしくないもののように見えるのだが、調査結果からは、資質的要因の少ない人にとって、これはどうも適応的な方法なのではないかと考えられるっぽい。これらに見られるのは「逃げない我慢強さ」と「あきらめ」の力であり、これが不利に働いてしまうことももちろんあるのだが、言い換えれば「あるがままの受容」と「問題との折り合いをつけていく」という行動でもある。これらが大きなストレス状況を乗り越える底力的な役割を果たしているのかも、と平野氏は推測している。

 

このあと、個人差を踏まえた臨床心理学的介入の方向性についても述べられているんだけど、その方向性については5つの提言がなされている。

提言1:レジリエンス要因の中には、後天的に身につけにくいパーソナリティもあるという視点を持つ。同時に、レジリエンス要因を身につけられるかどうかには個人差があるという視点を持つ。

提言2:個人の生まれ持った資質に注目し、その資質を活かしたレジリエンスを引き出す。

提言3:資質的要因を多く持つ人には、様々な対処(コーピング)を用いて問題に向き合っていけるようにする。

提言4:資質的要因の少ない人には、多い人とは異なる立ち直り方があることを尊重する。

提言5:その上で資質的要因の少ない人には、「聴いてもらう」サポートを通して、本人が他の対処方法を「教えてもらう」サポートも選択していけるような可能性を提供する。( p.133-138)

 そして、具体的なサポートの流れとして、

ステップ1:個人の持つ資質的要因のアセスメント

ステップ2(資質的要因を多く持つ場合):「強み」を活かすサポートの提供

ステップ2(資質的要因が少ない場合):「聴いてもらう」サポートの提供

ステップ3(資質的要因が少ない場合):「教えてもらう」サポートの提供(p.140-144)

 という3ステップが挙げられている。このへんは心理職の人が実践することを前提として書かれているけれども、人から相談されたときとかに「なんでこの人はこうできないんだろう?」みたいに感じたときに役立つ気がする。

 

「資質的レジリエンス要因が少ない人は、あるリスクをガードしづらくて人生ハードモードっちゃハードモードなんだけど、特有の強さも持っているし、他者のサポートを得つつスキルを身につけることでやっていけるようにはなるよ、支える側の人は彼らに対してまず聴く、それから助言等に進むといいよ、という話」と冒頭でまとめてみたけど、どうでしたかね。資質的要因の少ない人が、多い人と同じようには完全にはなれない、しかし違ったやり方でレジリエンスを高められるよ、というのは、残念だけれども希望もある。あくまで資質「的」、であるところもポイント。遺伝的要素が高いからこのように名づけられているけど、後から獲得できないわけではない。

この本は各章非常に親切なまとめパートがあるので、まずそこを読んでから詳細を読む、というやり方でもよいと思う。気になった方はぜひ読んでみてほしいです。

しかし、スキルを身につけるのも人と一緒にやっていかなきゃ難しそうで、そこがちょっとつらい、とにかく人と関わりたくない人がレジリエンスを向上させるにはどうしたらいいんだろう、という疑問はまだ自分の中に残っている。そもそも人と関わらずにやっていこうというのが無理な話なのかもしれない。

*1:将来に対して不安を持たず、肯定的な期待を持って行動できる力

*2:もともと不安が少なく、ネガティブな感情や生理的な体調に振り回されずにコントロールできる力

*3:もともと見知らぬ他者に対する不安や恐怖が少なく、他者とのかかわりを好み、コミュニケーションをとれる力

*4:目標や意欲を、もともとの忍耐力によって努力して実行できる力

*5:状況を改善するために、問題を積極的に解決しようとする意志を持ち、解決方法を学ぼうとする力

*6:自分の考えや、自分自身について理解・把握し、自分の特性に合った目標設定や行動ができる力

*7:他者の心理を認知的に理解、もしくは受容する力

ヤマシタトモコ『違国日記』

 

違国日記(1) (FEEL COMICS swing)
 

 

先日、相互フォローの方が主催していたサタデーマンガフィーバーというイベントに参加した。おやつつきで、主催の方のおすすめ漫画がちょっとしたガイドとともに1巻だけ楽しめる!というもの。そこで読んだヤマシタトモコ『違国日記』が非常によくて、今日買ってきた。

 

 

2話のみ試し読みができて、これを読んでもらったら設定はあらかたわかると思う。父母を亡くした女子中学生の朝が、叔母である少女小説家の槙生に引き取られる。ていうかわたしは2話が超超超好きなのでとりあえず読んでもらっていいですか?

 

comic.pixiv.net

 

読んでもらえましたか?以下ネタバレ含む2話についての感想を話していいですか。話します。

 

わたしは朝の「たらいってどうやって書くんだっけ」以下のやりとりがすごく好きで。槙生ちゃんは自分の姉、つまり朝の母のことは大嫌いで、でもでも朝がいま不当な扱いを受けているということをはっきりと言ってくれる。「あなたは 15歳の子供は こんな醜悪な場に ふさわしくない 少なくともわたしは それを知っている もっと美しいものを 受けるに値する」。ここを読むたび何度でも泣いてしまう、わたしが泣くことはこの作品の価値とはまったく関係ないのだが、何度でも泣いてしまう。朝にかけられた力強い目とその声、きっとすこし無骨で大きいだろうその手が、15歳のわたしをも守ってくれるように感じる。そのあとたらいの字を教える槙生の吠えるような顔。好き……。

 

さらに1話と3話にもすごく好きなシーンがあるのでその話をしていいですか?します。

 

1話でね、朝が執筆モードの槙生のことを「ちがう国にいる」と称するのがすごく好き。わたしは人が自分の世界に入り込んでいるのを眺めているのがすごく好きで、それをモードに入っているとかって言い方をしていたのだが、まさに、まさに「ちがう国にいる」だ。こんなに適切な言い表し方があったのか!とめちゃくちゃ驚いた。ちがう国にいる人の近くで眠る心地よさをわたしは知っている。

3話、3話にもすごく好きなシーンがあって、日記を書くと言ってみたものの書き出せない朝に対して、夕日の差す中で、「日記は 今 書きたいことを 書けばいい 書きたくない ことは書かな くていい ほんとうのことを 書く必要もない」と槙生ちゃんは言うのだ。槙生ちゃんのまっすぐな言葉はころんとそのまま入ってくる。文字通り。その槙生ちゃんの強さと繊細さのバランスがもう……もう……不器用さも……。

 

すごく好きな漫画になりました。続きが楽しみ。先のイベントで読んだ中だと、他にも売野機子ルポルタージュ』がよかったな……。

 

 

今、本や漫画を買うときにどう買うかすごく迷っている。どうしても画面上だと目がすべってしまって、さくっと読めるのだけどあとに残りにくい。本だと友人と貸し借りができるのもいい、しかし部屋でどんどんかさばっていく……。ただ、やっぱり物量を感じて読みたいものというのはあって、わたしはそんなに頻繁に書籍を買うわけではないので、もうしばらくは本という形態で買ってもいいのかなと思った。しかし今度はどこで買うか迷うんだよなあ〜。

 

パターソンを観た日の日記 抜粋

10月13日(金)起床時間8時 就寝時間1時30分 気分+2

時間が合いそうだったのでジム・ジャームッシュの「パターソン」を観る。ヒューマントラストシネマ渋谷、画面の位置が変で観づらい。映画で目を引かれたのは、左頬の二度のひきつりと、左脚のあまり膝を曲げずに歩く様子で、わたしは本当に、人のそういう、不器用さ……不完全さ?を愛しているなと思った。

思った以上に何も起きないパターソンの1週間、日本人俳優の不自然さ。バス運転手のパターソンは詩を作り、人々の話を横から聞き、笑って運転する。トラブルが多く暗雲立ち込める日もあるが、日々は続く。あれは続かせているのだと思う。ある程度活動しているならば、同じ日は二度となくて、いつも通りでもちがう日々が続く。どう楽しみを見つけるか、あるいは特に見つけなくてもよいのか。なんとなく観た後、最初はベイビードライバーみたいな爆発を映画では見たい、同じ値段か〜などと思ったが、落ち着いてみると非常によかった気がしてきて、胸の奥が重く、じんわりとひびいていくるようなかんじが続いた。妻とのベッドで起きるシーンはたしかに多幸感があったが、それは特別なものではなく「日々」なのだということがよくわかった。

 

すごくいい日だった。わたしはずいぶんと初対面の人と、そのまま話せるようになったし、自己開示はもともと苦手ではなかったけれど、その度合いがうまくなってきた。これもある意味では◯◯さんと会って話したときのあれがすごくよくて、あのときの自分のあり方がとてもよくて、いつかその話と感謝を伝えられたらなーと思う。もちろんがんばったのは自分だけれど、きちんと見ていてくれたのはその人であるので。

メルカリで服を売った

メルカリ、気になる化粧品を買うのに何度か利用していたんだけど、今回初めて売る側になって、1回目というのは1回しかないからメモしておく。

売れた

春、衣替えをしたとき、なんとなく形が合わないな〜、ほとんど着てないな〜と思った服を、いくつか試しに出品していた。先日いいねが押されて、3日ほど経って購入希望のコメントがついた。値下げの希望を述べられ、応じる。知らない人間と金銭に関するやりとりをするのは少し面倒。

送る準備

でもそれより面倒なのは配送方法の検討で、いろんなブログにまとめられてはいるもののどれが一番得かを考えるのに手間がかかる。最安じゃなかったとしても手間が少ないものを選ぼうと思ってらくらくメルカリ便にする。

一応服を再度確認し、ビニールで包む。そういえば使っていない一筆箋があったなと思い、簡単に礼を書く。なんとなくお店やさんごっこのようだ。ごっこ遊びをあまりしてこなかったので新鮮。これはたしかにお母さんたちがハマりそうだ、いらないものを処分できて、人に渡すことができて、売買や送受という形で他者とのやりとりができる。わざわざメモを書くコスト……と思っていたが、あまり感じたことのない種類の楽しさがそこにあった。

相手が支払いをしたという通知が来る。サイズがすごく微妙で、中サイズの箱に入るかわからないから、ガムテープと封筒を携えてとりあえずヤマトに持ち込むことにしてみる。このへん、慣れが生じたら考えなくてよくなるのかな。

 持ち込む

営業所に持って行く。結局詰めれば詰められそうだったので、中サイズの箱をお願いする。フリマアプリですか〜?と慣れた様子で聞かれ、はいと答えて案内の通りにタブレット端末を操作して宛先シールを出す。このへんは超スムーズで楽。

取引終了

送ったよ〜という通知をして、相手に届くのを待つ。その後評価をし合って終わり。

思ったこと

薄々わかっていたけど、自分にとって手間なことがかなり多い。不用品が整理できてお金が手に入るけど、結構コストが大きい。荷物用意してバーってなんかにくぐらせたらサイズ判定・梱包方法指定してくれるぐらいのことがあるとかなり楽になるなと思った。そうじゃないかぎりはやっぱり手間なので、今後売るのはしないかも……と思った。化粧品程度のやりとりが一番楽な気がする。

とはいえ、こういうふうにしてお金が得られるんだ〜と感じるのはおもしろくて、一定額以下は引き出せない&振り込み手数料がかかるのもあり、そのままなんか買いたくなる。フローの促進……という感じだった。そこそこほしいかな、試してみたいかな、ぐらいのものを買うのによい。

↑ここまでは梱包直後の感想で、今はそれから2日経ち評価まで終わったところ。この間に発送までの手間をずいぶん忘れたので、もしかしたらまた出すかもしれない。ダメ元で出しておくぐらいの使い方になるだろうけど。

それから、店で安くなってる服とかを(これ買ってちょっと高くして売れないかな〜)という目線で見るようになった。梱包等に慣れてしまえば、時給換算したらわりといいかもな……という感じがする。

今は売上金をどうするか考えている。来月には売上金に関するルールが変わるようなので(フリマアプリ「メルカリ」仕様変更のお知らせ | 株式会社メルカリ)、早めにどうするか決めたいね。

2017.10.24(火)

こんにちは。最近は卒論を書いています。卒論以外の文章を書きたくて、まあツイートはたくさんしてるんですけど、それじゃあ物足りなかったので日記を書くことにしてみました。

 

「卒論をやって初めて、勉強してる感がでてきた」と言ったのはわたしの友人ですが、言っていることはすごくわかる。これまでも6,000字……? ぐらいまでのレポートとかは書いてきたけど、だいたい頭の中に情報をおいといて、それをざーっと整理して、紙に書きだして、っていうのを数回やれば、本番はほぼノンストップで書けてきた。けど、卒論はそうはいかなくって、特にわたしの場合は今まで全然勉強してきてない分野の知識を仕入れることが必要で、あまりに久しぶりだったのでちょっと難航した。


夏ぐらいまでなかなか集中力がもたず、2、3度繰り返して読まないと文章の意味がとれなかったので、勉強するのがかなり苦痛だった。秋になってからは急に文章が読めるように戻ってきて(とはいえ「普段」の0.8倍くらいの速度ではあるんだけど)、ずいぶん楽になって、ちょっと楽しくなってきた。

 

数年前、体調がガクッと悪くなったとき、気づいたきっかけは期末レポートで。資料が手元にあるのに、それをどうしても開けない。どんどん焦って、そのうち電車やバスに乗るときにひどく緊張するようになって、人と目が合わせられなくなったので、あ、こりゃダメだ、と思って実家に撤退したのだった。


卒論に向かうとき、それがふっとよぎって、構成はできているのに、ずーっと書けていなかった。Wordを開くと真っ白で、その真っ白さに緊張して、頭の中にもやがかかる。自分の無能を証明されるようで辛かった。


先日、医学博士の人にその話をしたら、「とりあえず論文を書き写してみたら? どうせ引用もするんだろうし」と言われた。やってたらやる気が出る、そういうのは知っていて、ただ、向き合った時点でもやがかかってしまって身動きがとれなくなる。それを繰り返していたので、とりあえず言われた通りやってみよう、最初の一手を教えてくれているんだから、と思った。


で、それをやるようにしたら、驚くほどするすると書けるようになった。もやがかかって不安になるのがおさまった。なにか作業を始めてしまえば、そういう不安は入る余地がなくなる場合があるらしい(医学博士はその不安を「侵入思考」と言っていた)。

 

数ヶ月……正確には、去年の夏からうまく手をつけられずにいた問題は1日で解消されて、そこから1週間ほどで4,000字、卒論は進んだ。あまりにもあっけなくて、ちょっと笑ってしまった。Evernoteのメモは、重複があるものの、今数えたら25,000字ぐらいになっていた。マジか……。

ちょっと数字の衝撃で、何を書こうとしていたか忘れてしまいました。えっそんなに打ってんの? マジか……。

 

苦し紛れに出したテーマによって苦しむという、ちょっとアホなことをしていたんですけど、多分このテーマの一部についてはずっと考えていくんだろうな、と思っている。人、おもに子供の回復。それから、宗教とそうじゃない社会の関わり。これは価値観が違う人同士の関わりとも言い換えられると思っている。つまりすべての人間関係だ。


ここ数年、宗教とそれを含まない社会について、ひとまずのけりをつけたいなと思っていたので、ほんとに暫定的ではあるけれど、それが達成できそうなのが嬉しい。そして、移動先のテーマが回復になるんだと思う。


いろんなことがはっきりしてきて楽しい。もう勉強することが嫌い、もしくは苦手になってしまったのかなと思っていたけれど、集中力が戻ってきたら相変わらず楽しい。そのことが嬉しい。好きなものを剥奪されるのは辛かった。

 

学費の関係で難しいけど、卒論を出しそびれてもう1年大学にいたいくらいだ。否応無しにもう1年になる可能性はあるんですが。

7月に始めてよかったこと

7月に始めてよかったことの話をします。ギターの話。

実家にほぼ使われてないベースとアコースティックギターがあるのは知ってて、以前も一度さわったことがあったんだけど、とにかく指の皮膚がへにゃへにゃだったので痛くて、弾くどころじゃないですねえと思ってすぐやめた。

それから数年が経った今年の7月末。夏休みで帰省していて、暇で、というか読むべき本があるんだけど全然読んでもわけわかんなくて辛かったので、他のことをしようと思った。そのときに思いついたのがギターだった。

わたしはそんなに積極的に音楽を聴くわけじゃないんだけど、多分そもそも聴覚が結構優位というか、聴覚において快不快を強く感じるほうである。となれば、よい音が出せるというのはすなわちよい音を聴けるということでもあるので、快なので、自分で快を生み出せるのはいいことだな〜と思って、さわってみることにした。

チューニングを合わせて、チャララーとさわってみると、それだけで楽しい。自分の持ち合わせている楽器たる声は、同時に複数の音が出せないので、和音が出るだけで楽しいのだ。あとアコギの音が好き。

昔ピアノをやっていたこともあるのだが、両手で違うことをするのは難しかった。足もつくし。中学のときはアルトサックスをやっていて、これは両手で1つのことをするわけなので、問題なかった。ギターも、まあ混乱することはあるものの、なんとなく位置関係を覚えられればそれほど意識しなくてすみそうだ。と言える程度には、1週間ちょっと、毎日数十分さわってたらなった。

音楽をしているときは、他のことをなんにも考えなくてよくていい。音のことだけに集中して、これでいいのかなとか、なんかしっくりこなかったらどこの指がずれているのかなとか、そもそもチューニングがずれてきて上ずっているんじゃないかとか。そういうことを考えたり、いい音だな〜きれいな和音だな〜とうっとりしているだけになる。

わたしの好きな、ギターを弾く人たちが、よくスピッツの楓を歌っていたのを思い出して、コード譜を検索する。あ、もしかしたらなにか大きなものを抱いていることになるから安心するのかもしれないな。ギターを弾くということは。わーすーれはー……しーなーいよー……と、コードが変わるたびに止まりながら少しずつ弾く。曲を聴くときに歌詞は意識されず、すべて音のかたまりとして感じているので、ああこんな歌詞だったんだ、と思う。

自分より大きな音の出る楽器は好きなのだが、なかでもアコギはわたしにしっくりくるようだ。少し小さめサイズのはずなのに、指が届かなかったりちぎれそうになったりするけど、1週間ちょっとでずいぶん音がきちんと鳴るようになった。

ほんとは、ギターが上手で弾くのが好きな人に横で弾いてもらって、こそこそ歌うようなことをしてみたいなーと思っていた。だけど、自分でやってみるとそれはそれでおもしろいし、前は無理だったことがどんどんできるようになって楽しい。1人で完結できて、でも十分楽しいと感じられるものをもつのはよいことだ。しかも音楽は複数人でもできるから、もっといい。

久しぶりに歌を歌ったら、高い音が全然出なくなっていてびっくりした。昔はソプラノだったのになあ。主旋律よりそうじゃないもののほうが好きで、アルトをやりたがっていたんだけど、今はもうアルトしかできないかもしれないな。

左手の人差し指から薬指までの先が、少しずつ丸く、かたく、つやつやとなっていく。ギターをたくさん弾いてる人、指紋は消えないんだろうか。痛みに弱いので、多少じんじんしても続けたいと思うような、楽しいことが増えて嬉しかった。

1人で「んっ?」「お〜〜〜?」「……え?」などと言いながら音を鳴らし、歌うのは楽しい。蛙やら蝉やらの鳴き声がうるさい家で、しばらく人も歌ってみようと思う。

村上春樹のエッセイを初めて読んだ。『やがて哀しき外国語』

 

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

やがて哀しき外国語 (講談社文庫)

 

 

2ヶ月ほど前に、Twitterで「翻訳をやってる人のエッセイを読んでみたい!」と言っていたところおすすめしていただいた本のひとつ。

1991年から2年にわたるプリンストン在住期間のことを書いた、1992-1993年の連載が文庫本になったもの。

 

村上春樹、小説はなんかキザでクサいシーンが多い印象で、「ッカーー!よくこんなこと言うわ!」みたいな気持ちになってしまい数ページで断念することが多かったのだが、以前短編小説を読んでみたらそれほど「ッカー!!!」にならずにすんだのもあって、さてエッセイだとどうなんだろう……と思い手に取った。

いざ読んでみると、まあとても面白い。わたしは歴史的な流れをつかむのがとても苦手なのだが、村上の視点・語り口に助けられて、25年ほど前のアメリカの様子がよく伝わる。「アメリカ」と一概にくくらずに、それぞれの地域の様子を書いているのもいい。わたしは村上に対して、都会的イメージというか、なんかハイカルチャーなものを好みそうなイメージを長編小説から勝手にもっていたのだが、むしろ堅苦しいものは苦手そうな様子もあり、(あっこちらの勘違いでしたね……)と思いました。

しかし、何について書くにしても、こうポーンと放った感じがあるというか、「自分の属する社会」みたいなものへのこだわりがあまり感じられない文章で、おおらか……おおらかでいいんだろうか。「へえ、そんなこともあるもんなんだなあ〜」みたいなスタンスを感じる。心持ちに余裕があるのだ。とぼけたような感じのところもあり、なんか面白い人なんだなと思った。

時代の雰囲気というべきものを、こういうふうに本から感じることができたのは初めてだったので、読んでみてよかったなと思っている。また、最後に載っている「『やがて哀しき外国語』のためのあとがき」という文章が非常によくて、先に述べたような村上のフワッと感が、どのような視点によって生まれているのかを理解する手がかりになっていると思う。

 

村上さんのところ』とかもちょっと読んでみたくなったな。おすすめいただいてありがとうございました! 次は他の方に教えてもらった、岸本佐知子さんのエッセイを読んでみようと思う。

 

村上さんのところ

村上さんのところ

 
村上さんのところ コンプリート版

村上さんのところ コンプリート版