とっちら

好きなことを取っ散らかします。

3/24 Anti-Trench「キツネの窓」extra @四谷天窓.confort

わたしが言いたかった言葉は、わたしが聞きたかった言葉でもあるのだと知った。
 

 

ポエトリーリーディング×エレキギターの二人組ユニット、Anti-Trenchのワンマンライブに行った。わたしは普段ライブハウスに行かないし、詩もほぼ読まない。だからこそ、90分もひとつのユニットに集中できるこれはいい機会だなと思って行った。

 
朗読の向坂くじらは舞台に立つと、ひとりひとりと目を合わせはじめた。じっと見る。じっ……と。この文章から予想される3倍くらいの長さで、見つめている。笑みを湛えながら。
 
かちりと視線が合ったとき、「わたしはこの人に大切に思われている」「愛されている」とわかった。それだけで嬉しくて泣きそうになった。この人は、こうやって人と人が居合わせる、ほんのわずかな確率のことを知っている。そんなふうに思った。
 
わたしがとくに好きだったのは「ラヴレター」「パレード」だ。
 
何度も同じことを思い出して苦しんだっていい。雨の日に傘を持たずにずぶ濡れになってもいい。好きなこと、楽しいことをしてもいい。したいと思ったことをしていい。ただし、人に関係するときは正しく敬意を払って。
 
生まれてきて、よかったね。そこに条件はない。賢いからでも、足が速いからでも、かっこいいからでもない。条件はない、ただ、生まれてきてよかったね、なのだ。向坂くじらはそう告げる。
 
生きているだけで少しずつ終わりに向かっていくわたしたち。それは自分で早めることもできる。でも、向坂くじらはそれをとめる。その風を、まだそのからだにとどめておいてほしいと伝える。そして、そう願う自分のことをうらんでほしいと言う。なんと広い広いやさしさだろうか。
 
向坂くじらは壇上にいる。しかし、けっして上には立たない。与えられるのは「ゆるし」ではない、彼女の思いが手渡される。
 
広くて深くて愛のあるステージに、泣きながら帰った。わたしもひとつのビー玉だと思った。
 
(ギターの熊谷勇哉についても書きたいところだが、ほぼ顔が見えない位置にわたしが座っていたためにどんな様子だったのかがわからない。しかし、彼の音は添え物ではなくて、ステージはたしかに二人のものだと思った。浪曲でも三味線が自由に(即興で)演奏するが、少しそれに近いところもあるのかもしれないな、とあとから感じた。あれだけの音量がありながら、詩をけして邪魔しない、朗読をよりよいものに押し上げていくような力とゆるやかさがあって、かっこよかった。)
 
(なんとなくステージ上のお二人は「向坂くじら」「熊谷勇哉」だと感じたが、フリートークのときは「さきさかくじらさん」「くまがいゆうやさん」というかんじでかわいかったです)
 

わたしは普段あんまり目を見られるのが得意でないので、こんなこと滅多にないんですよ……。

あー、よかったな。