とっちら

好きなことを取っ散らかします。

「なんでそういうことがやりたいんですか?」「たぶん、過去の自分のための、リベンジ戦なんです」

タイトルは、先日灯台もと暮らし編集部に遊びに行ったときのやりとりなんですけど。

4月から大学4年生になるのもあって、就職のことを考える機会が増えています。その中で、「人は、どういうときにがんばれるのだろう?」ということが気になるようになりました。

もちろんいろんなタイプの人がいて、いろんながんばり方があるのですけど、自分ががんばれるかどうかの基準はこれじゃないか?と思ったのが、「過去の自分がそれによって救われるかどうか」

 

こう言ってしまうとだいぶ狭められてしまうように思えるかもしれないんですけど、そんなことはなくて。

たとえば、「中学生のとき、学校でいやなことがあったけど、インターネットでできた友人に元気づけられた」ということがあったとします(ありました)。この体験は、「インターネットのコミュニティに助けられた」とも、「学校以外のコミュニティに助けられた」とも言える。インターネット→学校以外、と変換するだけでかなり幅は広がりますよね。しかも、今ならその相手は人間でなくてもいいかもしれない。人が感じられるメディアや、Pepperくんのようなロボットでもいいかもしれない。

そうやって、今までの自分に起きた出来事をふたたび捉え直して、「あのときの自分をどうやったら救えるか?」「あのときどうしてほしかったか?」と考えると、自分ががんばれることが見えてくるのかなあ、と最近は思います。

 

しかも、過去の自分っていうめちゃくちゃ身近な人がターゲットになるので、とにかく像が明瞭。それが本当に自分以外の人のためにもなるのか?っていうのは疑問だったんですが。

tottira.hateblo.jp

以前書いたこの記事がなかなかに読まれ、ツイッターでもその界隈の方に拡散され、検索流入も継続的にあるっぽく(訪問者の半数以上がこの記事に来てる)、かつ「これを読んで落語を見に行きました」というご報告も数件いただいたことで、「過去の自分を助けるためのもの、ちゃんと役に立つんだな」という実感を得ることができました。

 

飲食店の常識を覆し続ける 未来食堂 会員制サロン『サロン18禁』をオープン|未来食堂のプレスリリース

上記の記事を読んで、思い立ってこのようにまとめているわけですが、やっぱりわたしのこの考え方はわりと間違っていないように思います。ひろ〜い意味で、過去の自分のためのリベンジ戦。別に暗い気持ちじゃないので、しばらくはそういう感じでいこうかな、と思っています。おわり。

酸素ボンベの残量がパッと見てわかる機器の話

夕飯時のニュースで見たものの話をします。おもしろいニュースだと思うんだけど、インターネットのどこにも参照できるものが見つからなかった……

どんなニュース?

静岡県の裾野にある(株)愛和(以下愛和)という企業が、医療用の酸素ボンベの酸素残量がすぐわかる機器を開発した。愛和は、オーディオ機器・美容機器の設計や製造販売をしている会社で、医療分野に関わったのは今回が初めて。

医療に関わる人の要望を吸い上げる企業(名前は失念しました)が、「酸素ボンベの残量がすぐわかればいいのに!」という意見を受け、機器の開発を愛和に依頼。美容機器と医療機器は近いものがあるから、というのが愛和を選んだ理由。3年かかって製品化し、一部で導入され始めたということ。見た目やサイズ感は楽器のチューナーに似ていて、とにかく操作性にこだわったと。残量が減ったら音が鳴る、アラート機能もついている。(画像挿入したかったけど見つからなかった、公式(オーディオと美容機器の設計、製造、販売の Love-Harmony 株式会社愛和)が更新されるといいなあ)

なにがすごいの?

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http://www.med.oita-u.ac.jp/mecenter/sansobonnbe_jikan_.htm より

これまで酸素ボンベの残量は、圧力計などの数値と上のような早見表を照らし合わせて毎度確認していたらしい。手間だしいちいち時間がかかるよね。

残量計算自体は看護師国家試験にも出るみたいで、「酸素ボンベ 残量」で検索したら候補はこれ(↓)だし、知恵袋にも「計算方法を教えてください!」がいくつか見つかったから、現場でやるにはややこしいのだと思う。計算ミスがこわすぎる。

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しかも、正確に計算していても、思ったより早く酸素が減ってしまったり、残量がなくなるギリギリで残りがわずかなことに気づいたり……ということがあったそう。

今回、愛和が機器を新たに製造したことで、看護師さんの負担と患者さんの危険がともに少なくなるのだと思うと、ほんと意義ある仕事ですね……。

おまけで感想

医療関係の知識がほぼない中で今回のニュースを見たんだけど、「医療の現場ってそんなところも人に任せられてるのか!」という、今さらな感じの驚きがありました。いやだって酸素の残量だよ……!それを圧力計確認→計算or早見表と照らし合わせ→(タイマーか何かをかけるにしても)随時確認ってなると、ものすごい手間と時間と場合によっては移動が必要になるわけじゃないですか。その労力を軽減する、この機器の開発って本当にすごいことだなと思いました。

わたしは比較的インターネットの世界にいるほうだと思うんだけど、人の命をより直接的に救うのはこういうものでもあって、インターネットでインターネットの話してるんじゃなくて、インターネットの外でインターネットがうまく使われるようにならなきゃだよなあと思いました。あれ、別にインターネット関係ないか?強いて言えばIT化のほうか。

最初にニュースを見たとき、「こういうの通知してくれるアプリありそう〜」と思った程度には「なんでもアプリで解決できる!」みたいなイメージを持っていたんだけど、実際はまだまだそうじゃないんだなあ。ボンベ内の圧力が相手だから難しいんだろうか。でも感知してどうにか〜とかありそうだなあ。今回開発されたのはアプリとかじゃなくて機器そのものだったんだけど、今後はどういう方向に行くのかなあと思いました。操作した手ごたえというか、感触があったほうが注意深くなれたりするのでは、というところも思わなくもない。わたしの場合はだけれども。

わたしはわりと「人にしかできないこと」があると信じていて、それがロボットの出現によって揺るがされるとは、あんまり、思えない。もしかしたら未来は違うのかもしれないけど、そのときロボットはもはや人なんじゃないかとさえ思う。

「人にしかできないこと」を人がするためにこそ、ITが頑張れるところは頑張れるといいよね、という思いが新たになりました。

 

物事をまとめる能力がめっちゃ落ちてるのと、ほんっとに忘れっぽくなってるのを実感したので、折に触れてこんな感じでまとめていけたらなと思います。おわりです。

「時間があるのは学生のうちだけだから、遊んどいたほうがいいよ〜」

この話をします。

 

遊ぶ時間とかなかった

そもそも「遊ぶ」という概念があんまり自分の中で捉えられてなくって、優先順位が低かったんですよね。あと勉強が好きだった。好きだったっていうか好きなんですけど、なんなら先日のストレングス・ファインダーで「学習欲」とか出るくらいには好きなんですけど、そうすると課題に取り組むのが楽しいの。最初は「え〜めんどくさいな〜」とか思っててもやり始めちゃうとどんどん追求しちゃうのね。「プハ〜終わった!いいもんできた!」みたいのが楽しくて、参考文献もばんばん読むし、まとめるのも頑張るし。好きな先生のゼミに混ぜてもらったりもしてたから、それプラス一人暮らしの家事してたら全然時間なかったんですよね。体力もないから、土日は外出するのはどちらか1日だけって決めてたし。インターネットしてたら1日終わるとかもあるじゃないですか?

外出するよりも家でスカイプで通話繋げっぱなしにしてるのとかを好むタイプなのもあって、タイトルみたいなことを言われても「はあそうですか」ぐらいの感じでした。

 
今は「遊ぶ」時間がほしいです

4月から大学4年生になるんですが、もう就活じゃないですか。都市部の一部ではすでに決まってる人とかもいると思うんですけど、地方はほんとにこれからなので、イベント等でどんどんスケジュールが埋まってく。そしたらね、すっっっごく遊ぶ時間がほしくなったんですよね。

これは夏頃からずっとお休みしてたのも関係してると思うのでその話もちょっとしますけど、とにかく実家でじっとしてたんですね。体調の変動が激しかったので人と約束することもできなかったし、家でできることをひたすらやってたんですよ。約半年。そしたらね、外に出たくなるもんなんですね。人に会いたいし、どこか行きたいし。強制的に家族以外の人と関わらず家にこもってると、超インドア人間でもそうなるんだなあ。価値観の変化もあったのかもしれないけれども。

で、なんだっけ、遊ぶ話ね。遊ぶというか、なんか、人に会ったりとかさ。気になる場所に行ったりとかさ。そういうのをめちゃくちゃしたいんですね?そういうのが「遊ぶ」なのかどうかはわからないんですけど。

それほど切望してなかったというか、忙しさに紛れて「まあ時間できたときでいいやーフーン」くらいの感じに思っていたことが、今は「いや時間空けよ!?時間は作らなきゃできないから空けよ!?行こう!?」くらいに感じられます。

あ、でも逆に、それこそ就職したら平日夜と土日しか時間がなくなると思うから予定立てやすいのかもしれない。そんなに焦ることはないのかもしれないですね。

でもでも、今行きたいところはぜんぶ就活の前に行っておきたいというか、自分の基準のヒントが隠れている気がするというか。そんなの思い込みだよ、と言われるかもしれませんが、まあ何か自分のアンテナに引っかかる部分があるところなわけなので、どうにか予定を突っ込んでやりたいなあと思っている次第です。でもガチの就活前って、3月解禁だからもうすぐなので、いろいろ無理もあるんですけどね。

こういうのを見越して、みんな留学行ったり旅行行ったり遊んだりしてたなら、ほんとすごいなあと思いました。ナマで出会う機会がたくさんあるっていうことですもんね。ちょっと概念の世界に偏りすぎていたかも。後悔はまったくしていないけれど、もうちょっと触覚とか生身で感じるものを入れていきたいなと思いました。

 

そんなわけで、タイトル前半部分はともかく「遊んどいたほうがいいよ〜」のほうは理解できたよ、という話でした。ほんとにあと1年ぐらいほしいもんね。日本のいろんなところを覗いて、その地域特有のものを体感して、自分がしっくりくるものをもっと知りたい。主体的に、自分本位な期間というものを味わってみたい。今まで自分のことをあまりにも知らなかったようなので、各地を知ると同時に自分のことを知っていきたい。これはいわゆる「自分探し」になるのかなあ。

もしなんらかの理由で、もう1年学生延長とかになったら、文字起こしなどをして資金を調達しながら、いろんなところをふらふらしたいなと思いました。おわりです。

(ここまで書いて、「これ、夏休みの満喫のしかたを知らなかったから『人生の夏休み』と称される期間のすごしかたもわからなかったのでは……!?」とひらめいてしまいました、いろんなことを理解するには時間がかかっておもしろいですね)(2000字越えました、お疲れさまでした)

ストレングス・ファインダーやってみたらなんか恥ずかしかった

こんにちは。あっという間に2月になりましたね。今年の初めはやたら時間が過ぎるのが遅いなあ〜と思っていたけど、気づいたら12分の1が終わっていたということは、なんだかんだで今年もすぐ終わってしまうのでしょう。久しぶりのうるう年なのでちょっとわくわくしています。

 

yxmk.hatenablog.com

なかむらさんのこの記事を読みまして、ずっと気になってたしこれを契機にストレングス・ファインダーやっとくか〜!と思ってこれ買いました。

www.amazon.co.jp

昨年の半ばあたりで結構自己認識や価値観が揺らいだりもしていたからか、悩む選択肢もめちゃくちゃ多かった。時間あけてやってみるのもおもしろそうだな〜と思ったので、今回の結果をメモしておこうと思います。

1.共感性

あなたは周囲の人の感情を察することができます。彼らが感じていることを、まるで自分自身の気持ちであるかのように感じることができます。本能的に彼らの眼で世の中を見ることができ、彼らの見方を理解できるのです。(略)

まあ薄々くるかなとは思っていた。思っておりましたとも。ただこれ、めちゃくちゃ勘違いしてる可能性もなきにしもあらずというのが結構こわいとこだなとも思う。

2.学習欲

あなたは学ぶことが大好きです。あなたが最も関心を持つテーマは、あなたの他の資質や経験によって決まりますが、それが何であれ、あなたはいつも学ぶ「プロセス」に心を惹かれます。内容や結果よりもプロセスこそが、あなたにとっては刺激的なのです。(略)

 わかる。

3.個別化

「個別化」という資質により、あなたはひとりひとりが持つユニークな個性に興味を惹かれます。あなたはひとりひとりの特徴や個性を覆い隠したくないので、人を一般化したり、あるいは類型化することに我慢できません。むしろ、個人個人の違いに注目します。(略)

 よくわかる。共感性とこれって結構関わりがあるのでは?というかんじする。

4.収集心

あなたは知りたがり屋です。あなたは物を収集します。あなたが収集するのは情報――言葉、事実、書籍、引用文――かもしれません。あるいは形のあるもの、例えば切手、野球カード、ぬいぐるみ、包装紙などかもしれません。集めるものが何であれ、あなたはそれに興味を惹かれるから集めるのです。(略)

 わかるけど……なんか恥ずかしくないですか!?「知りたがり屋」って!いやわかるけど!

5.原点思考

あなたは過去を振り返ります。そこに答えがあるから過去を振り返ります。現在を理解するために、過去を振り返ります。(中略)初対面の人や新しい状況に直面すると、慣れるのにある程度の時間を必要とするでしょう。しかしその時間を取ることを心掛けなければなりません。(略)

 特に最後のほうめちゃくちゃよくわかる、というかんじ。ただこれ、あんまりよくないところかもなあと思っている部分だったので、少し複雑な気持ちになりました……。

 

こんなかんじだったんですけど、4つ目に収集心が出てきてるの見たときわりと笑っちゃいました。収集心って、なんかそんな……そんなのが上にきちゃうの!?分析思考とか達成欲とかかっこいい響きのやついろいろあるのに!?という気持ちだった。

でもこれね、英語になるとまた雰囲気が変わるんですよね。Empathy,Learner,Individualization,Input,Contextの5つ、って見ると結構違いません?なんかこっちのほうがいくらか正確なかんじがする。特に知りたがり屋→Inputの違いは大きくないですか?

 

5つ全部を眺めて思うのは、やっぱりトップでグイグイと言うよりはサポート側と言いますか、誰かあってこそといいますか。サブっぽい立ち位置のほうが活用できそうなものが多いかな。相手のそれぞれの背景を知って、それに対応していくとか。しかも収集心と学習欲があるから、それらが苦じゃないんですよね多分。やっぱり人間同士で関わることが好きなんだと思うので、そのへんは忘れずにいたい。

インタビューの文字起こしをしていることもあって、最近はインタビューすることや編集することへの興味が高まりつつあります。そして企業内なら人事も気になる。とは言えいろんな職種に興味があるから、少しずつでも全部体験できたらいいのになあと思いながら、ちょこちょこ地元でインターンに行ったりもしています。

『さあ、才能に〜』の本自体はまだほぼ読んでいないので、来週中には一通り読めるようにしたいなあ。そんでもうちょっとじっくり考えたい。ひとまず以上です。

コミュニティが苦手なわたしとインターネット

昨夜したツイートが、わたしとインターネットの関係性をほんとによく表してるなと思ったのでメモ。

以前わたしが見ていたのは完全に「趣味のインターネット(利益が出なくていい)」だったので、今見ている「仕事としてのインターネット」と性質が違うのは当然のことだとは思うのですが、わたしは「所属しなくても情報が得られる」というのがインターネットのいいところだなあと個人的に感じていたので、残念。

インターネットがサブの場だったからこそできていたことがあると思うんだけど、いまやインターネットがメイン、そこからリアルに近いコミュニティに流す、というのが多くなってきているので、大事な部分はリアルに持ち込まれることが多く、リアルありきというか、なんかそういう感じがする、という話。わたしはあまりリアルで関わるのが好きでないというか、対面でのコミュニケーションがそんなに得意でないので、やりづらいなあといったかんじ。

いわゆるオタクがインターネットに多く、日本のツイッター初期は彼らがぶわーっと流れ込んだオタクのツールだったという気がしていたので。これはもちろんわたしの観測範囲では、という話ですが。

ここで言うリアル強者というのは、主にリアルで普通に振る舞える人という感じの意味、人との対面コミュニケーションにストレスを感じないとか。さっきと同様、サロン等(最近で言えば有料記事)があることによって、わたしが一番価値を感じるような情報は誰でもアクセスできるわけではなくなった。アクセス権云々については、そもそも誰でもアクセスできる時代なんて来てないと思ってますけどね、さらにね、という感じ。かつてのファンサイトとかはいわゆる「裏」も探せば見れたし、まあ多少の労力が必要だったかもしれないけど金銭も会う必要もなかったのだ。だからこそ会ってみたくなるのかもしれないですね。

田舎なので、インターネットが開通したのが10年前(2005年)だったんですけど、そこからずーっとインターネットをそれなりにがっつり使っていて、その中のリアルとは断絶されたコミュニティとかに救われたことのあるわたしとしては、かつてのそういうインターネットが見つからなくなるのは寂しい。自分の所属するクラスタが変わったというのもあるだろうなあ(お絵描き掲示板とかおい森とかニコニコ動画とか好きだった)。あとはオタクの地位の変動も関係してそう。わたしは表に出たかったわけじゃないし、明らかにされたかったわけでもないんだ。

これは「彼女のいる彼氏」という矢島光さんのマンガを読んでの話なんですけど、徳永は人たらし感のすごいできる男。チャラいけど、苦労をあまり表に出さないようにできる。

わたしはそういう人のことをめちゃくちゃ尊敬していて、どんなときも笑顔とか、化粧をちゃんとするとか、おしゃれするとか、そういうところがほんとに苦手分野なので本気ですごいと思ってる。そういう人相手だと仕事もとってもやりやすいし。雰囲気づくりが上手い人は超超超超憧れる。だからこそ、同時にコンプレックスもバシバシに刺激されるわけで、これはこっちの問題だから何がどうとかいう話ではない。

だから、わたしがWebメディアのコミュニティ化が好きじゃないというのは、わたしが人付き合いがそんなに得意じゃないのもあって、コミュニティに参加しないと素敵なものが得られないとなると、わりとハードルがあって個人的に困ったなあという話でした。Webメディア側からしたら、そっちのほうが色々確実なんだろうとは思うんですけどね……

ツイッターとかニコニコ動画が好きなのは、多分コミュニケーションが成立してるように見えて、それらがほぼ一方通行だったからだと思う。

それは義務感か願望か。「〜しなきゃ」「〜したい」問題

明けましておめでとうございます。今年は「まとまらなくてもいいや〜」くらいの気持ちで、ツイッターにはちょっと長い文章をこちらで出していけたらと思っています(とか言ってたらツイッターで1万字投稿できるようになるらしいですね)。

 

で、新年最初のエントリがこれです。「〜しなきゃ」と「〜したい」について。一言でまとめてしまうなら「ほしいからという理由で買わせてくれ」という話。

 

 

こういう感じのツイートをしたわけなんですが。「〜しなきゃ」「〜したい」の2つのうち、より長くその気持ちや行動が続くのは後者だと思っています。前者は義務感から起こる、多分少し焦りのある状態で、後者は純粋な願望。もちろんそれは誰かによって意図的に掻き立てられた可能性もあるのですが。

わたし自身はどちらかというと前者、義務感から動くことが多くて、それやりすぎると疲れるんですよね。あとそうでない人に対して寛容でいられなかったりする。

だからそれを、「〜したい」と口だけでも言い換えてみたり、捉え方を変えてみたり、ほんとに願望になるまではやらないようにしてみたり…という対策をし始めてみました。人と関わる中ではウソの願望は口にしないようにしてるんですが、自分だけに関わることならそうやって騙してみるのもアリかなと。

ここまでがツイートその1の話。ここからはツイートその2の話をしていきます。

たしか最近TLで、アーティストのグッズを買うべきという風潮について、のような記事が流れてきていました。さらっと一読したのですが、ちょっとしっかり覚えていないのでその記事自体には言及しません。

アーティストのグッズ購入などの一部には、義務感「〜しなきゃ」が関わっているように思われます。特に最近は、という印象なんだけど、どうなんだろう。あんまりそういう界隈にいないから、最近情報が入り始めただけかもしれません。

たしかにそのような支援がないとアーティストの生活は厳しいのかもしれません。だけど、それを義務感で買うことがはたして続くのか?と考えると「うーん…」となってしまいます。

アニメの円盤買わなきゃ、とかもそう。買いたい、はすごくいいと思うんですよね。ただ、買わなきゃ〜となると、さっきも言ったように、長続きしないし他人にも強制してしまいそうな気がする。「あなたもこれ好きなんでしょ?じゃあお金出して応援しないと!」みたいな感じで。これ(義務感だとしてもお金を出すこと)が厄介なのは、比較的「善いこと」として見なされているからではないかなと思っています。

 

で、アーティストのグッズはいいんですよ。そんなに問題じゃないんですよわたしの中で。あまりそういう対象がいないので。

もう疲れたのでここからはさらに文章砕きますけど、バッキバキに砕きますけど、そういう「〜しなきゃ!」みたいなのって善いことをしてる人や団体に多くないですか?というのが今回したかった話。善い人たちは「〜しなきゃ」に期待しすぎているというのがより正確かもしれない。(メインの話にたどり着く前に疲れて乱雑になるの直したいですね…)

 

グッズつながりでいくと、例えばフェアトレードな製品だとかさ、これを買うと一部が何かのプロジェクトの資金になります!だとかなんですけど。それを買うときに「●●のためにこれを買わなきゃ」で買うのか、単純に「これ買いたい」で買うのかって、全然違うと思うんですよね。そんで、より多くの人に買ってもらうためには後者であることが必要なんじゃないのか?と。製品それ自体の魅力がないと、思想を共有してない人はおそらく買わないわけで。仮に最初は出していたとしても、他に製品として好きなものが出たら、もうそこにはお金を出さなくなるかもしれないですよね。

あのね、多分善い人たちにとって善いものを買うのはすごく自然なことなんですよね。「解消しなきゃ」という問題があって、そのために何かを買う。でもそれは、ある程度の熱意や思い入れがあるからできることだと思います。そうできない・しない人が大半であるなら、そういう人たちにまで届くものにしなければならない。口で言うのは簡単だ、というのは重々承知してるんですけど、案外善い人たちはここの差に気づいていないのでは?と思うときがある。あるいは人の善さを信じすぎている。

 

逸れてきた感がありますが、要するに「〜しなきゃ」じゃなくて「〜したい」のレベルまで持ってこないと、善いことであってもたくさんの人は巻き込めないんだな〜と思った話です。特にお金を出す場合には。

もちろん善い人のことを悪く言っているわけではなくて、ただ、人の善さを信じることは強みでもあり弱みでもあるな、と思うんです。わたしもわりと性善説よりの考えなので余計に思う。足を踏み入れてないのでわかりませんが、ビジネスの世界ではさらにそうなのかなあと感じています。書いた記事が画像化されてシェアされ本家にたどり着かないとかそういうのを見ていても、多分思っている以上に業界の外の人は中の人の思いに関心がないんだろうなと。

わたしはわりと、どこにも染まりきれずはざまにいることが多いので、なんかそういうところもうまく使えば使えるんだろうなと思った次第。

長くなりましたがひとまずおわり。

早野龍五・糸井重里『知ろうとすること。』読みました

 若干の今更感はあるのですが、『知ろうとすること。』を読みました。 

知ろうとすること。 (新潮文庫)

知ろうとすること。 (新潮文庫)

 

うん、おもしろかった。もちろん放射線等についての知識も非常にわかりやすかったんだけど、それよりも物事に対する姿勢みたいなものが印象に残ったかもしれない。対談形式なのでふむふむ〜とあっという間に読めてしまった。

で、早速本筋とは違う話をするんだけど。いや、ほんとはそんなに本筋でないとも思ってないんだけど。わたしが気になったのは、早野さんのあとがきにあったこの文章。

ですから、震災以降の日々は、僕にとっては、あらゆるものが新鮮でした。最初は、コミュニケーションにしても非常に下手でした。四苦八苦しながら、だんだん、社会に対して語るというのはどういうことなのかが、わかっていきました。

ここの、「社会に対して語る」という部分が心にとまった。早野さんはそもそも放射線などを専門にしている人じゃなくて、エキゾチック原子というものが専門の物理学の人なんだけど、今回、色々なことをいわゆる一般の人に向けて語るときに苦労したと。

科学は限定的に正しいものであり、いつか書き換えられるかもしれないものである、というのは科学の世界では当然な考え方。だからこそ「この場合はこう」と限定した言い方をするんだけど、それが一般の人にはなかなかわかってもらえない。

 

科学の分野に限らず、「社会に対して語る」ときには、こういった一般との断絶みたいなものを乗り越えなければならないのだと思う。そのために、早野さんは「科学的には必要のない機械」であるベビースキャンという機械を稼働させた。

この機械を、糸井さんは「不安を解消してもらうためのコミュニケーションツール」と呼ぶ。社会に対して事実を伝えようとするとき、もしかしたらそのような存在が必須なんじゃないか。事実がどーんと真ん中にあって、その端をじゅわじゅわと溶かして広げ、まわりに浸透させるもの。

 

最近すごく思うけど、事実だけで人を動かすのは難しい。わかっていても不安なことがあるし、わかっていてもやらないことがある。それって「わかった!」ではない状態だからだと思うんだけど、そのびっくりマークを付けられるのは事実そのものではない気がしている。

でもやっぱり、糸井さんも言うように「なによりも、なにをするにも起点になるのは『事実』」なのだとも思う。今はどれが事実なのかを見つけ出すのも容易ではないけれど、できる限りそこから始めたい。

 

糸井さんはもうひとつのあとがきで、こんなことを書いていた。

百歩ゆずって、脅かされるほどの事実があった場合でも、そこからどうやって希望を見いだしていくのか、いっしょに考えるのが伝える人の役目だと思うのです。

誰に伝えるのか、というのもあると思う。特定の誰かなのか、それとも社会なのか。それともそれとも。わたしはやっぱり、何かを伝えるのなら、たくさんの人の前でピシッと立って言えるようなことを伝えたいなあと思いました。

 

「我々の体には、138億年前の水素が入ってる」とかって話もあっておもしろかったので、 よければ読んでみてほしい。500円以下だし。

よい脱線をすることも能力のひとつだよなあ。