とっちら

好きなことを取っ散らかします。

山崎ナオコーラ『ネンレイズム/開かれた食器棚』

 

ネンレイズム/開かれた食器棚
 

 読んだ。二作品とも、一種のあっけなさというか、淡々としている感じというか……があって、山崎ナオコーラだなあと思う。なんか一瞬(今わたしは社会問題を扱うコラムを読んでいる……?)みたいな気持ちになることがあった。

二作品に共通して見られるのが、「過程での幸せ」「区分け(グループ分け)の拒否」「『自然』と『意志』を分けないこと」。もう直接的に言葉にされているから、意図的なものであるか、よっぽどこの時期(初出は2015年)に考えていたことなのかなと思った。なにかをしているこの瞬間を楽しむ、みたいなの、どういうときにできているかな……と考えるなどした。区分けの拒否は理解できる。自然と意志を分けないことについては、前々からどの程度人は自由に決定できるのかというところに疑問があったので、そういう捉え方もできるかなーと思った。その2つの単語について、一見まったく違うものに思われるが、じつはそうでもないのかもしれないと思うとすごく面白い。ゆっくり考えたい。

 

染色体に異常のある子をもつ鮎美が主人公の「開かれた食器棚」においては、この自然と意志を分けないこと・出生前診断・高齢出産と社会状況についての主人公の意見が述べられている(特に出生前診断について結構じっくり書かれている)。その中で、

 ただ、「高齢出産」には、子ども自身のためにどうするか、ということだけでなく、対外的な問題もある。

 このところ、国の財政状況があまり良くないせいか、税金の使い道に細かい意見を持つ人が多くなったようだ。

 「自己責任」という言葉が流行り、自分で選択した道で困難に陥った人に税金を使うことを渋る人たちが増えた。

 「『自然』に不幸になった、『自分たちと同じような人生を歩んでいる日本人』だったら税金で助けてあげることに異存はないが、そうではなく、自分の『意志』で困った状況に陥った人ならば助けたくない」ということだ。

 「家族内で助け合え」という科白も多く聞かれるようになり、まるで時代を逆行しているみたいだ。

とあり、ここから6ページに渡って、出産と世の中について書かれている。わたしが大学のメディア関連の講義で憲法改正草案を読んだのがたしか2014年とかで、世の中〜みたいな気持ちになっていたので、すごくこう……社会の空気感が作品の中に取り込まれているなあと思った。

そういう空気を感じつつもどう自分が決定していくかということについて、『かわいい夫』『母ではなくて、親になる』などのエッセイにも書かれている気がするので読んでみたい。

 

メモとして書いてみてわかったが、山崎ナオコーラの作品をうまくまとめるのは難しい。教訓を拾おうと思って読めば他にもたくさん要素がある。血のつながっていない家族のような共同体、血がつながっていても親と子はまったく別の存在であるという意見、自分の好きなように生きるという選択、などなど。他の作品ももうちょっと読んで、書かれるものの推移とかを知りたいなーと思いました。

 

余談のようなそうでないような話なんだけど、自分に子供ができたときに出生前診断をするのか、もし染色体に異常があるとわかったらどうするのか、とかはめちゃくちゃ考えてからじゃないとわたしは妊娠出産に向かえないだろうな〜という気がしている。あと生まれてからも大病をするのではとか、常にすごく心配してしまうと思う。そういうときに以下のようなメディアがあるのはとても助かるだろうな、結局歩くのは自分だけど、こうやって手すりのようになってくれるものがあるとずいぶん違うだろうな、ということを思っている。

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