とっちら

好きなことを取っ散らかします。

桜はぼんやりと光っていた。

f:id:sharuka0:20160405233816j:plain
桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。


けして取り立てて桜が好きなわけではない。昨年の桜は覚えていない。一昨年の桜はきれいだった。その前の桜は、たしか雨に濡れてぐちゃぐちゃだった。


桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。


ある友人はドイツに行くのだという。彼女が楽しくやっていく様子は想像できたし、なんの心配もいらないと思った。大変なことがあっても、彼女なら大丈夫だと思う。彼女自身もきっとそう思っている。


桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。

大学が4年間なのは短いな

今日まではお休みだったので、インターネットでいくつかの記事を読んでいたらいろいろぶわーっと開けてきて、びっくりした。

昨日は急に選択肢がたくさん目の前に広がっていることに気がついたのだけど、今日はそれらを少し現実と照らし合わせた。まだ条件がはっきりしていないので何も決められていないのだけど、やることが見えてきたのはとてもありがたい。

明日はさらに現実に近づけつつ、諸々書き出して考えたいと思う。ちょうどいいタイミングでsoarのイベントもせまっている。何もかもがぴったりだ……。

そうやって方向性がはっきりしてきたところで教育学部の講義のシラバスを見てみたら、見事に受けたいものがたくさんあって、ああ……。となっているのが今。いつだって学べると言ったって、大学で学ぶのはなんだかんだ効率がいいと思う。選択の手間が省けるのはかなりありがたい。今までの約15年間、主に勉強さえしていればよかったってなんて贅沢をしていたんだ、と思う。

わたしは思い込みの「やるべきこと」に引っ張られすぎるきらいがあるから、もう少し「やりたいこと」に目を向けたらいいんだな、というのがやっとわかってきた。21年もかかったけど、今わかってよかった。

「ただの21歳女子大生です!」

昨晩は、インターネットなしには出会わなかった方々とお会いした。

自己紹介……というか主催者の方による参加者紹介があったのだけど、わたし現時点ではものすごく何者でもない21歳女子大生でびっくりした。某メディアやフリーライターさんの文字起こしをお手伝いさせてもらっているけど、肩書きらしきものはちょうど何もないときだったのだ。

当日は、主催のうち1人とわたしがおそらく最年少で、山奥の大学の最高学年にもなると年上の方と話す機会が減ってくるので、めちゃくちゃ新鮮だった。しかもお世辞抜きに素敵な方ばかりで、ああ、こういう人たちと働くことができるのならば楽しいだろうなと素直に思ったし、今後自分がそうやって年を重ねていきたいとも思った。最近年上の方とお話するたびに似たようなことを思っている気がする。

自分がなんでもないこと、だからこそ、ここから何にでも近づけるということ、そして多分、いつになってもそれは変わらないのだということを感じた夜で、すごく楽しかったのでした。わたしやっぱり人が好きだ。

夢で西島秀俊(小学校教員)にプロポーズされたので

ほんとうに目を覚ましたくなかった……。あまりに最高だったので忘れる前にメモをさせてくれ。

 

何がいいって、ちょっと頼りなくも子供たちのことをめちゃくちゃ愛している西島秀俊が真剣にわたしに結婚を申し込むというのが最の高でした……よかった……そんなに西島秀俊さんのでてる作品しっかり見たことないはずなのに、どうやって頭の中であんな映像が作られたのか不思議でしょうがない。

男性が意を決して、といった感じの表情をしているのはかっこいいなあ〜と思いました。

 

以下、関係ないけどおまけのツイート。

以上です。

不倫とかマルチ商法とか、法とか人の目とか。人工知能Tayちゃんの差別発言を添えて

いくつかのいろんなものを目にする。不倫の話とかはほんとにどうでもよくて、どうかわたしに関係のないところでやっておくんなまし、と思う。そこに関わる人の悲しみとかまで考えていたら、世の中が許せないことだらけになってしまいそうなので、あまり思いを馳せないようにしている。

 

note.mu

今日、マルチ商法に関するインタビューを読んだ。そのあたり、あまりよくわからずにいたのでちょっと調べてみたけど、マルチ商法自体は違法ではないらしい。特定商取引法に違反すればそれはまずいのだけど、違反しない限りは合法で、ネットワークビジネスとかも同じ枠だということ。なるほど。だからこそ苦しむ人がいるのだろうなあと感じた。

で、このシリーズを読んでて思ったのは、人は何をもって善し悪しを判断しているのだろう、ということ。インタビュー対象が「これは危険だ」と感じるきっかけには、周りからの評判の悪さや冷ややかな目、というものもある。これは決して間違っていないものだと思うのだけど、評判は悪くても正しく取引が行われていれば合法だし、じゃあ一体何をわたしたちは危険視しているのか?ということを思った。

なんというか、わたしたち……というか、わたしの話になるんだけど。わたしに染み込んでいるのは法ではなくて倫理のほうだと思う。人に迷惑をかけてはならないとか、そういうことのほうが多分重い。そういうものが奥底にあるから、マルチ商法はあぶないとか、不倫はいけないとかっていうふうに考えるのではないだろうか。不倫も法律に反しているわけではないんですものね。

で、倫理と考えると、そこにあるのは社会やら人の目という他人の存在で。自分が生まれた社会が違えば、考え方も違う。このへんがもっとはっきり異なってくるのが、信仰によるものだったりするのかなと思う。

 

www.gizmodo.jp

Tayの差別発言なんだけど、これを「人工知能はまだまだ」と捉えるか、「人間がする同様のリアクションの理由を探る材料」と捉えるかでまた違うよね、みたいなツイートを見た。

Tayにとっての社会はリプライをくれる人たちだった。今回のようなことを防ぐために必要なのは、フィルタではなくそれ以外の社会なのではないかと考えてみたりした。わたしたち人間にもそもそもフィルタは備わっていないし、人工知能が人間を考えるきっかけになるケースはもっと増えそうだ。どんどん倫理は問い直されていくのだと思う。倫理が更新されなければどうにもならない問題はたくさんあるのだろうし、それが倫理を更新してまでどうにかすべきことなのかはまだわからない。

わたしたちは何を基準にすべきなのだろうか。法を守るだけでは、多分信用を得るには少し足りないし、かといって倫理を重視していても、気づかぬうちにずるずると間違えていくような気もする。法律ってほんと一体なんなんだ?そもそもほとんど法律知らないしな?と思ってググってでてきた法務省の子供向けページがひどくて笑った日でした。

「ビューティフル・ガールズ」を見たので感想とか

 

ビューティフル・ガールズ [DVD]

ビューティフル・ガールズ [DVD]

 

 

夜中に放送されてたから見てたんですが、ナタリー・ポートマン(15)がとにかく美しい。15で!これって!傾国の美女かよ……と思いました。顔立ちに知性が溢れ出ている。

最初は古い映画だな、男たちがどうしようもねえなほんとに、女のことなんだと思ってんだ、このまま進むなら最後まで見ないだろうな、と思ってたんだけど、なんかこう……徐々に変化する彼らの心情とか、どうしようもなさを抱えながら大人になっていった感じとか、そういう普通のことというのかな。けっして特別なことは起きない、そういう中でどう生きるのか?みたいなことをちょっと感じた。

 

タイトル「ビューティフル・ガールズ」なんだけど、確かにビューティフルな女性たちが出てきた。容姿だけじゃなくて、自分に価値があることを理解していて、男性と対等に渡り合って、それはとってもビューティフルに思えた。ていうかほんとナタリー・ポートマンがよかった。彼女の出るシーンだけでも見てほしい、ユーモアがもう……。なんとなくエマ・ワトソンのことを思い出した。

ごく当然のことなんだけど、自分の価値は自分で決めて守るんだ、とか、やっぱり知的でユーモアのある女性ってかっこいいな、とか、なんかそういう、確実に知っていたけどうっかりすると消えかかるようなことを引き出された。

 

この映画、対比構造がめちゃくちゃわかりやすい。その中にもきちんと共通した部分があったりして、なんかそういう部分を見つけながら、違いも認めながら、人間は付き合っていくのかなと思ったりした。

様々な場面で出てくる知的なジョークに遠回しな誘い、それらへの切り返しもとてもよかったし、ピアニストはセクシーな職業だなと思った。自分の思うクールとかセクシーとか、そういうものを忘れたくないな。

メディア、あるいは文章の力について

www.1101.com

これを読んで、「よくわからない」という立場にいることについて考えました。そこに関しては書かないので、とりあえず上のコンテンツを読んでもらえればと思います。

 

「わかった」と思っていても、本当はわかっていないときがよくある。

たとえば『嫌われる勇気』なんだけど、わかっていることばかりで、なぜこれが売れているんだ?とそのときは思った。でも、後にちょっと困ったことがあったとき、「ああ、あれに書いてあったのはこういうことへの対処の仕方だったんだな」とそこで初めて有用だなあと感じたんだよね。これがあの本の本当の価値だな、と思った。自分に実例が足りなくて、見つけられなかっただけ。

本当の理解にいたるまでには、多分いくつかステップがあって、それはすべてを踏まなくてはいけないわけではない。ぴょんと飛ばして理解できるときもある。けど、その重みを知るのは、全部を踏んだときなのかもしれない。

 

さっきのコンテンツを読んで、いろいろ考えてまとめているうちに、なんだかすっきりしてきた。あのコンテンツは、よくわからないというところからスタートして、自分なりの結論に到達している。そのプロセスを読むことで、わたしたちはそのステップを追体験しているんじゃないか、と思った。そういうのがメディアや文章の力なのかな。追体験というのを意識したのは初めてのことだったので、びっくりして今これを書いている。

 

ついでに、文章には浄化作用もありそうだ、というのを感じる。カタルシスとかそういうかんじのやつ。

こうやってまとめていくことで、それを客観視できるというのもそうなんだけど、なんというか、日記やメール、手紙のたぐいで、特に宛先のないものを書くことは、懺悔に似ていると思う。さっき書いていて思った。

現代日本における宗教に関して、けっして詳しくないんだけど、かつての宗教の代わりを担っている他のものはたくさんあると思う。バラバラになりつつも存在しているんだと思う。今の日本においては大抵、宗教は必要のないものというか、むしろなぜ必要なの?という感じで捉えられることが多い思うんだけど、本当に必要ないんだろうか、便利なのに、と思わなくもない。パッケージになっていたものがバラバラになったから、見つけ出すのが少し困難になっている気がする。哲学の価値が見直されるように、宗教の価値もいつか見直されることはあるんだろうか。震災に際して、多少見直された気もするんだけど。

わたしは宗教に関して考えるとき、機能を重視しがちだ。メインの要素とはズレているのかもしれないんだけど、わたし自身がめちゃくちゃ信じてるそういうものがないからか、今はまだうまく想像できない。信じるものがあるというのはどういう気持ちなんだろう。まっすぐな人が多いな、という印象なんだけど。

 

話がそれたけど、文章にはかつて多くの人が求めていたであろう機能がある、ということを言いたかった。一方で全然働きかけてこない言葉もすごく好きなんだけど。音を重視した絵本や詩に見られるやつ。

 

特にまとまらないけど、今日はこれでおわり。いろいろ、わかろうとしてみたい。