とっちら

好きなことを取っ散らかします。

とにかく過程が知りたいsharuka0

 

自分の傾向として、「とにかく過程が知りたい」というものがある。まるごとすべて知りたい欲とも言う。昔からイラストのメイキング動画とかを見るのはすごく好きだったけど、ここ数日で、料理動画の快感に目覚めた。せっかくの縦型でも、通信制限が嫌なのでそんなにスマホからは見ていないんですけど……。

わたしはインタビュー記事がめちゃくちゃに好きだけど、それもその人がここにいたるまでの「過程」、あるいは製品が完成するまでの「過程」を知ることができるからだ。とにかく過程が知りたい。これにはいくつか理由があるかもしれない。

 

・その人・ものをより理解できる(ような気がする)

インタビュー記事はまさにこれだ。わたしは知るほどに愛が深まるタイプで、好きなものが増えるというのはかなり気持ちがいい。仲間意識が芽生える、とかもこれだと思うので、編集裏話なんかもここに入る。

・何かが「完成する」達成感のようなものを味わえる

自分が手を動かさず、「見ている( see)」というどちらかといえば受動的な行為をしているだけで完成していくので、楽に達成感のようなものが味わえる。これは動画のほうが強い。けど、インタビューとかストーリーを消費しているときにも少なからずある(ただしreadなのでちょっと気力が必要)。

・自分もできるようになる

過程がわかれば自分もできる。わたしは手段を集めてその中から使えそうなものを選ぶことが多い(ゆえにめちゃくちゃにプロセスを提示したりする 参考:初心者による初心者のための落語の楽しみ方 - とっちら)ので、使える道具候補が増えるのはハッピー。どの事例も具体例なので、ちょっと俯瞰して変更を加えれば自分にも適用しやすい。料理動画などは変更の必要すらないのでかなり楽。

 

ざっとこんな感じなのかな。最果タヒさんが詩を書く様子をGIFにしてたりするけど、あれも興味深い。

 なんか、予測変換とか検索候補とかいろいろサジェストしてくれるし、文字と写真のレシピから推測しなくても動画で見せてくれるし、便利になったもんだなあと思う。予測の手間が省けるとも言えるし、予測の機会を意識的に作らないとなくなるとも言える。

 

 

「おわりとはじまり展」@ほぼ日のTOBICHI

新潮社の季刊誌「考える人」のリニューアル記念企画、「おわりとはじまり展」に行ってきました。

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1階では養老孟司さんの「ヨーロッパ墓地めぐり」の写真が展示されていて、人骨の扱いって文化や時代によってこんなに違うものなのか!とびっくりした。ポルトガルの納骨堂ではね、人骨が内装に使われてるのですよ。

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わたしは中学生ぐらいのときから骨、主に人間の骨格がなんとなくけっこう好きで、わりと本気でいつか小さくていいから骨格標本がほしいなと思っていたりするんですが、これは一度見に行ってみたいかもしれない……と思った。

日本ではお葬式がコンパクト化したりしてると思うんだけど、「死」の扱いが今後どうなるのかというのは気になっている。

 

2階は、リニューアル後の特集「12人の考える人」に関する展示。パネルの近くには学校のような机と椅子があり、そこに各人の著書が置いてあった。真っ白なノートと原稿用紙も。ノートにはその展示や著書を見た人の感想や読書メモが残されていて、ああ、こうやってじっくり、本と自分と向かい合いたい、と思った。

展示全部を見終わったときに思ったのは、「わたしもこういうのを書いてやりたい」ということだった。もちろん考えるのは好きだけど、わたしも渡す側にまわってみたい。静かにメラメラ闘志を燃やす。

 

帰り際に、編集長の河野さんと、編集部の方と少しお話することができた。お話している中で気づいのだが、わたしはこういう雑誌を買ったことがなかった。初めての雑誌。季刊だからゆっくり読んでも大丈夫。

 

行きの電車で読んでいたヨシフ・ブロツキイ『私人――ノーベル賞受賞講演』で、詩人ブロツキイは、読むということは能動的であり、極めて私人的な行為であると言っている。

私人とは、公的な地位や立場を離れた一個人、ということだ。そこには作品と「わたし」しかいない。

この講演が行われたのは約30年前。リアルに接続されたSNSでの「つながりっぱなし」が起きているという点で、当時と今では少し違うかもしれない。インターネットを介して文を読みながら完全な私人になることは、はたしてできるだろうか?(できないとは思っていないけれど。)

 

本や雑誌にはシェアボタンがない。本に向かうとき、その視界に他者の意見や評価は入ってこない。作品と「わたし」。

深く考え問う前にシェアできてしまう今、「書籍だからできること」もたしかにあるような気がして、それを体現しようとしているのが「考える人」なのかもな、と思いました。定期購読しちゃおっと。

わたしはソフィー(仮)、自分の手で呪いをひとつずつほどく。

大学からの帰り道、なんとなく、今の自分は「呪いをひとつずつほどいている」状態だと思った。信頼している先生と、いろいろお話をしたあとのことだった。

 

この「呪い」というものは、1本1本はそれほど大したことない糸のようなものなんだけど、絡まると少々厄介だ。「こうあるべき」「〜はできない」がぐるぐる重なって、身動きがとれなくなってしまう。

人の手を借りて、糸の存在に気づいたり、こんがらがった部分を見つけることはできる。でも、多分、それをほどくのは自分だ。

 

わたしは「ハウルの動く城」のソフィーを思い出す。ソフィーは荒れ地の魔女に、老婆になる呪いをかけられた。でも、その呪い自体は、たしかけっこう早い段階でハウルがといている。ソフィーを老婆のままにさせていたのは、彼女の自己暗示のようなもの。呪いを維持しているのは自分だったのだ。

 

わたしに絡みつく糸はどうだろう。いつの間にか増えていたそれらは、他人との関係の中で生まれたものかもしれないし、わたしみずから首を突っ込んだものかもしれない。糸だと思い込んでいただけで、口に入れれば綿菓子みたいに甘くてふわふわしているかもしれない。

 

こんなツイートをしていたら、友人がこれを教えてくれました。

 

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「魂の脱植民地化」という観点から、「ハウルの動く城」も読み解かれているらしい。読んでみたい。本来の自分を発揮する、ということらしいので、陽明学の本来の意味に近いものがありそうです。陽明学はけっこう好き。

 

さて、少しそれましたが、あなたもわたしもソフィーの要素を持ち合わせてはいないでしょうか。

わたしはソフィー(仮)、自分の手で呪いをひとつずつほどく。

 

桜はぼんやりと光っていた。

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桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。


けして取り立てて桜が好きなわけではない。昨年の桜は覚えていない。一昨年の桜はきれいだった。その前の桜は、たしか雨に濡れてぐちゃぐちゃだった。


桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。


ある友人はドイツに行くのだという。彼女が楽しくやっていく様子は想像できたし、なんの心配もいらないと思った。大変なことがあっても、彼女なら大丈夫だと思う。彼女自身もきっとそう思っている。


桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。

大学が4年間なのは短いな

今日まではお休みだったので、インターネットでいくつかの記事を読んでいたらいろいろぶわーっと開けてきて、びっくりした。

昨日は急に選択肢がたくさん目の前に広がっていることに気がついたのだけど、今日はそれらを少し現実と照らし合わせた。まだ条件がはっきりしていないので何も決められていないのだけど、やることが見えてきたのはとてもありがたい。

明日はさらに現実に近づけつつ、諸々書き出して考えたいと思う。ちょうどいいタイミングでsoarのイベントもせまっている。何もかもがぴったりだ……。

そうやって方向性がはっきりしてきたところで教育学部の講義のシラバスを見てみたら、見事に受けたいものがたくさんあって、ああ……。となっているのが今。いつだって学べると言ったって、大学で学ぶのはなんだかんだ効率がいいと思う。選択の手間が省けるのはかなりありがたい。今までの約15年間、主に勉強さえしていればよかったってなんて贅沢をしていたんだ、と思う。

わたしは思い込みの「やるべきこと」に引っ張られすぎるきらいがあるから、もう少し「やりたいこと」に目を向けたらいいんだな、というのがやっとわかってきた。21年もかかったけど、今わかってよかった。

「ただの21歳女子大生です!」

昨晩は、インターネットなしには出会わなかった方々とお会いした。

自己紹介……というか主催者の方による参加者紹介があったのだけど、わたし現時点ではものすごく何者でもない21歳女子大生でびっくりした。某メディアやフリーライターさんの文字起こしをお手伝いさせてもらっているけど、肩書きらしきものはちょうど何もないときだったのだ。

当日は、主催のうち1人とわたしがおそらく最年少で、山奥の大学の最高学年にもなると年上の方と話す機会が減ってくるので、めちゃくちゃ新鮮だった。しかもお世辞抜きに素敵な方ばかりで、ああ、こういう人たちと働くことができるのならば楽しいだろうなと素直に思ったし、今後自分がそうやって年を重ねていきたいとも思った。最近年上の方とお話するたびに似たようなことを思っている気がする。

自分がなんでもないこと、だからこそ、ここから何にでも近づけるということ、そして多分、いつになってもそれは変わらないのだということを感じた夜で、すごく楽しかったのでした。わたしやっぱり人が好きだ。

夢で西島秀俊(小学校教員)にプロポーズされたので

ほんとうに目を覚ましたくなかった……。あまりに最高だったので忘れる前にメモをさせてくれ。

 

何がいいって、ちょっと頼りなくも子供たちのことをめちゃくちゃ愛している西島秀俊が真剣にわたしに結婚を申し込むというのが最の高でした……よかった……そんなに西島秀俊さんのでてる作品しっかり見たことないはずなのに、どうやって頭の中であんな映像が作られたのか不思議でしょうがない。

男性が意を決して、といった感じの表情をしているのはかっこいいなあ〜と思いました。

 

以下、関係ないけどおまけのツイート。

以上です。