たまこまーけっと感想
ばーっと見終わって、そしていくつか考察を読んで、まあそれとはあまり関係なく思ったこと。
・いわゆる「古くからある日本らしさ」みたいなものが他者の目から描かれている
デラ・モチマッヅィという鳥の目を通して、日本の死者にもお地蔵さんにも手を合わせる、全く関係ない空から下がった魚のバルーンにもとりあえず祈ってみる、みたいないろんなものに手を合わせるような姿勢が描かれているのがわりと気にかかった。とくにデラちゃんはそれをまっすぐに疑問として聞いたり、同じものを見てもこちらとあちらで解釈が違うということが示されていたり、わりと模範的な異文化交流・受容が描かれたように思う。
また、舞台が京都の商店街であるところもまさに、という感じで、その中での「人々との心温まる関わり」もまさにまさに、という感じだった。主人公たまこの実家の餅屋も含む、そういう古くからある、認められてきたものみたいなものがある一方で、たまこ家の向かいにある革新的餅屋たるもち蔵家、見た目は女性だが声が明らかに男性な花や、たまこに思いを寄せる女友達みどりちゃんなど、近年新しく受け入れられようとしているもの(というと語弊があるかもしれないけれど……)もごく自然に描かれていて、けして排除されているわけではなかった。考えてみたら、何かが他者によって排除される、みたいな恐怖がほぼ描かれていなかった気がする……。優しい空間だなと思いました。
・「たまこに感情移入できない」か?
このアニメの感想として、「たまこがいい子すぎてよくわからない」みたいなものがわりとあるらしい。たしかに、みどり回、朝霧回みたいなのがあるのに比べると、たまこ回と言うべきものはなかったような気もする。強いて言えば最終回とその前の回がそんな感じ。日常の中の小さな成長(というか進歩、ぐらいの感じ)はいくつも描かれていたと思うけど、たまこはたしかに変化が少なかったな……
たまこが誰に対してもお母さん的な役割というか、とにかくその姿勢が受容受容という感じで、多分人間らしさを感じるのはそこに肯定・否定あたりがのっかったときなんじゃないかなと思う。わたしは友人にああいうタイプのいい子が何人かいるので、とくに違和感はなかったな。
でも、このアニメを見ていて思ったのは、個々人の性格が結構はっきりしていて混同されていないということで、こちらも「そういう人間たちがいるんだなあ」みたいな感覚でみていたために、とくに感情移入するシーンはなかった。それぞれの人の物語だ〜と思ったのみだった。
他にもデラが異文化の中でちゃんと相手の希望通りにしているところとか、デラすごくいいなと思う箇所はたくさんあるんだけど、全体としてはとりあえずこんな感じです。この後の映画「たまこラブストーリー」を見るためにたまこまを見たと言っても過言ではないので楽しみ。
最近読んだり見たりしたもの
最近あんまりインターネット上にメモしてなかったので。
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教育関係の講義を受け持っている先生にいろいろ相談していたとき、「あなたがやりたいのはここに近いんじゃない?」と言われて気になっていた、子どものコーチングに関しての本。
とても細かく章がわかれており、読みやすかった。身につけられそうな具体的な手段について書かれているのは後半からで、結構少ない。それを有効に使うために、前半で概念というかふんわりした話をわりと長めにしているのだと思う。多分技術的な部分は実践の中でしかどうにかならないところが多いんだろう。
それにしても、なんで教育関連のものって名前が安っぽい・うさんくさい・言ってしまえばダサい(クールでない)かんじになりがちなのかなと思う。柔らかさ、温かさみたいなものをそのまんま表現するとそういうところにつながってしまうっぽくて、外部の人が関わりづらいなと思うことが多々ある。より多くの人が関わってくれなければどうにもならないジャンルだからこそ、もっと外が興味を持ちやすいようになるといいのになと思う。
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いろいろ嫌になっていたときに友人の家で見た。若い女社長ジュールズのもとにやってきた70歳の男性インターン、ベン。ジュールズのほうの思いは正直そんなにわからなかった(というか感情移入はできなかった、わたしが仕事をしていないからだと思う)んだけど、仕事もなく妻も亡くしたベンの行き場のなさだとかそういうもの、そこから仕事をする中で希望が生まれる様子などを見られたのがよかった。
マイ・インターンというタイトルをどう解釈したらいいのかよくわからないんだけど(わたしの会社のインターン生というジュールズ目線が主なのか、わたしの行うインターンというベン目線が主なのか。どちらでもあるのかもしれない)、わたしはある意味ベンの人生の物語として捉えていたかもしれない。
人に対してどう接するのかとか、生き方について、わたしは出来る限りベンのようでありたいと思っているけれど、それって馬鹿らしいことなのかな、もっと適当にやればいいのかなと悩んだりしていたので、ベンのようにまっとうに、公明正大に生きてもいいんだよな〜と思ったりした。あとユーモアはだいじ。
見終わったあと、働くこと……というより、生きることへの希望が持てました。人生長い(はずだ)し、あんまり焦らなくてもいいな〜と思った。友人も元気が増してて嬉しかった。
黄色くてかわいい。元気でかわいい。吹替の天海祐希さんとバナナマンがかなりよかった。友人が宮野真守を即当てしたのがウケた。
めちゃくちゃよかった……ストーリーの寓話性というか、もうめちゃくちゃ教訓なんですよね、「君たちはこうやって生きろよ」の世界というか。これを見て育つ子どもたちは立派な権利意識を持つんだろうなとか、あー理性が重視されるのかなとか、けして間違ったことではなくても言い方を考えなきゃいけないんだなとか、いろいろあると思う。try everythingというのはとてもいいなと思った。まっすぐでわかりやすいし……。
わたしはそんなにディズニー作品を見てこなかったので、ラプンツェルあたりからしか知らないのだけど、かっこよくないヒーロー像(それでもヒーローなんだけど)とかはかなり好きですね。あとシュガー・ラッシュとか、ベイマックスあたりからの乗り物に乗ってるときの疾走感がすごく好きだった。
キャラクターもかなり……かなり……といった感じで、わたしはボゴ署長とか受付担当のクロウハウザーがかなり好きでした……。
今思えば、なんか本能というか野生?をバカにしてるような面もあったのかなと思わなくもない。けどとりあえずもう1回観たいなと思いました、今度は吹替か英語字幕表示で。ニックの幼少期のシーン、たいへんにつらい気持ちと本当にありがとうございますの気持ちが入り乱れて呼吸が辛かったです。
「YÔKAÏNOSHIMA」 シャルル・フレジェ展/雑貨展
「YÔKAÏNOSHIMA」 シャルル・フレジェ展
雑貨展
そういえば、雑貨展の展示に群言堂のものがあって、三浦編集長の号外が!もらえたんです!!もとくらで知って、めちゃ素敵だなと思ってたので嬉しい…… pic.twitter.com/0IkYZOSseE
— ハルカ (@sharuka0) 2016年5月15日
とにかく過程が知りたいsharuka0
編集長就任後3ヶ月で月間再生1億回を突破!C Channel編集長に聞く動画メディアの育て方 https://t.co/H5ksh89gDr
— ハルカ (@sharuka0) 2016年5月10日
「複雑な物事を一般化して伝える通俗化スキルをつけることが、Webのコンテンツやメディアを運営する人にとって重要なのかな」わかり
— ハルカ (@sharuka0) 2016年5月10日
自分の傾向として、「とにかく過程が知りたい」というものがある。まるごとすべて知りたい欲とも言う。昔からイラストのメイキング動画とかを見るのはすごく好きだったけど、ここ数日で、料理動画の快感に目覚めた。せっかくの縦型でも、通信制限が嫌なのでそんなにスマホからは見ていないんですけど……。
わたしはインタビュー記事がめちゃくちゃに好きだけど、それもその人がここにいたるまでの「過程」、あるいは製品が完成するまでの「過程」を知ることができるからだ。とにかく過程が知りたい。これにはいくつか理由があるかもしれない。
・その人・ものをより理解できる(ような気がする)
インタビュー記事はまさにこれだ。わたしは知るほどに愛が深まるタイプで、好きなものが増えるというのはかなり気持ちがいい。仲間意識が芽生える、とかもこれだと思うので、編集裏話なんかもここに入る。
・何かが「完成する」達成感のようなものを味わえる
自分が手を動かさず、「見ている( see)」というどちらかといえば受動的な行為をしているだけで完成していくので、楽に達成感のようなものが味わえる。これは動画のほうが強い。けど、インタビューとかストーリーを消費しているときにも少なからずある(ただしreadなのでちょっと気力が必要)。
・自分もできるようになる
過程がわかれば自分もできる。わたしは手段を集めてその中から使えそうなものを選ぶことが多い(ゆえにめちゃくちゃにプロセスを提示したりする 参考:初心者による初心者のための落語の楽しみ方 - とっちら)ので、使える道具候補が増えるのはハッピー。どの事例も具体例なので、ちょっと俯瞰して変更を加えれば自分にも適用しやすい。料理動画などは変更の必要すらないのでかなり楽。
ざっとこんな感じなのかな。最果タヒさんが詩を書く様子をGIFにしてたりするけど、あれも興味深い。
詩を書く過程のgifアニメ。昨日の分。 pic.twitter.com/r8WamW3ErS
— 最果タヒ(Tahi Saihate) (@tt_ss) 2016年5月5日
なんか、予測変換とか検索候補とかいろいろサジェストしてくれるし、文字と写真のレシピから推測しなくても動画で見せてくれるし、便利になったもんだなあと思う。予測の手間が省けるとも言えるし、予測の機会を意識的に作らないとなくなるとも言える。
テキストが全然手っ取り早い手段ではないというのはほんとにあるよね 字を読むことは一部の人の趣味になっていくのかな
— ハルカ (@sharuka0) 2016年5月6日
「おわりとはじまり展」@ほぼ日のTOBICHI
きたよ pic.twitter.com/edjEejMpaL
— ハルカ (@sharuka0) 2016年4月16日
新潮社の季刊誌「考える人」のリニューアル記念企画、「おわりとはじまり展」に行ってきました。
1階では養老孟司さんの「ヨーロッパ墓地めぐり」の写真が展示されていて、人骨の扱いって文化や時代によってこんなに違うものなのか!とびっくりした。ポルトガルの納骨堂ではね、人骨が内装に使われてるのですよ。
わたしは中学生ぐらいのときから骨、主に人間の骨格がなんとなくけっこう好きで、わりと本気でいつか小さくていいから骨格標本がほしいなと思っていたりするんですが、これは一度見に行ってみたいかもしれない……と思った。
日本ではお葬式がコンパクト化したりしてると思うんだけど、「死」の扱いが今後どうなるのかというのは気になっている。
2階は、リニューアル後の特集「12人の考える人」に関する展示。パネルの近くには学校のような机と椅子があり、そこに各人の著書が置いてあった。真っ白なノートと原稿用紙も。ノートにはその展示や著書を見た人の感想や読書メモが残されていて、ああ、こうやってじっくり、本と自分と向かい合いたい、と思った。
ハフィントンポストの創設者の方の書籍おもしろそう pic.twitter.com/avPiB8naIH
— ハルカ (@sharuka0) 2016年4月16日
いつも彼女の文を読むとき、わたしは嫉妬している気がする。 pic.twitter.com/mRDkVmHhak
— ハルカ (@sharuka0) April 16, 2016
展示全部を見終わったときに思ったのは、「わたしもこういうのを書いてやりたい」ということだった。もちろん考えるのは好きだけど、わたしも渡す側にまわってみたい。静かにメラメラ闘志を燃やす。
帰り際に、編集長の河野さんと、編集部の方と少しお話することができた。お話している中で気づいのだが、わたしはこういう雑誌を買ったことがなかった。初めての雑誌。季刊だからゆっくり読んでも大丈夫。
ところで、わたしには「雑誌を買う」という機会がなかったので、これが初めて買った雑誌です pic.twitter.com/6FZy4Jvgo5
— ハルカ (@sharuka0) 2016年4月16日
行きの電車で読んでいたヨシフ・ブロツキイ『私人――ノーベル賞受賞講演』で、詩人ブロツキイは、読むということは能動的であり、極めて私人的な行為であると言っている。
私人とは、公的な地位や立場を離れた一個人、ということだ。そこには作品と「わたし」しかいない。
この講演が行われたのは約30年前。リアルに接続されたSNSでの「つながりっぱなし」が起きているという点で、当時と今では少し違うかもしれない。インターネットを介して文を読みながら完全な私人になることは、はたしてできるだろうか?(できないとは思っていないけれど。)
本や雑誌にはシェアボタンがない。本に向かうとき、その視界に他者の意見や評価は入ってこない。作品と「わたし」。
深く考え問う前にシェアできてしまう今、「書籍だからできること」もたしかにあるような気がして、それを体現しようとしているのが「考える人」なのかもな、と思いました。定期購読しちゃおっと。
わたしはソフィー(仮)、自分の手で呪いをひとつずつほどく。
大学からの帰り道、なんとなく、今の自分は「呪いをひとつずつほどいている」状態だと思った。信頼している先生と、いろいろお話をしたあとのことだった。
この「呪い」というものは、1本1本はそれほど大したことない糸のようなものなんだけど、絡まると少々厄介だ。「こうあるべき」「〜はできない」がぐるぐる重なって、身動きがとれなくなってしまう。
人の手を借りて、糸の存在に気づいたり、こんがらがった部分を見つけることはできる。でも、多分、それをほどくのは自分だ。
わたしは「ハウルの動く城」のソフィーを思い出す。ソフィーは荒れ地の魔女に、老婆になる呪いをかけられた。でも、その呪い自体は、たしかけっこう早い段階でハウルがといている。ソフィーを老婆のままにさせていたのは、彼女の自己暗示のようなもの。呪いを維持しているのは自分だったのだ。
わたしに絡みつく糸はどうだろう。いつの間にか増えていたそれらは、他人との関係の中で生まれたものかもしれないし、わたしみずから首を突っ込んだものかもしれない。糸だと思い込んでいただけで、口に入れれば綿菓子みたいに甘くてふわふわしているかもしれない。
いま、呪いをひとつずつほどくということについて考えながら帰っているのだけど、これってもしかしてとてもハウルの動く城なのでは……?
— ハルカ (@sharuka0) April 13, 2016
こんなツイートをしていたら、友人がこれを教えてくれました。
「魂の脱植民地化」という観点から、「ハウルの動く城」も読み解かれているらしい。読んでみたい。本来の自分を発揮する、ということらしいので、陽明学の本来の意味に近いものがありそうです。陽明学はけっこう好き。
さて、少しそれましたが、あなたもわたしもソフィーの要素を持ち合わせてはいないでしょうか。
わたしはソフィー(仮)、自分の手で呪いをひとつずつほどく。
桜はぼんやりと光っていた。
桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。
けして取り立てて桜が好きなわけではない。昨年の桜は覚えていない。一昨年の桜はきれいだった。その前の桜は、たしか雨に濡れてぐちゃぐちゃだった。
桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。
ある友人はドイツに行くのだという。彼女が楽しくやっていく様子は想像できたし、なんの心配もいらないと思った。大変なことがあっても、彼女なら大丈夫だと思う。彼女自身もきっとそう思っている。
桜をまた綺麗だと思えるときが来てよかった。
わたしは謎のインスピレーション能力を手に入れたらしい、友人の誕生日も留学先もなぜかわかってしまった……
— ハルカ (@sharuka0) 2016年4月5日