2018年6月
図書館で借りた。短くてちょこっと読むのいい。宮下奈都さんの本は読み続けるぞーという思いでいる、羊と鋼の森が本当によかったので……。
図書館で資料として借りた。
図書館で。人を殺したいと思ったこと、自分はあるかな〜と考えたけど、憎かった人はいても殺したいとかはないなと思った。
図書館で。疲れていて、なんか軽く読めるものを……と思っていたので、すごくちょうどよかった。
1巻が無料になっていたのと、ねとらぼの記事を読んだら続きが気になってしまったのとがあって、全巻Kindleで買った。わたしやっぱ倫理のことよくわかってないのでは?という思いになった。昼顔の映画も見たんだけど、不倫……不倫て……不倫てどうなんですかね?『1122』とか読んでみるとよいんだろうか。
・5月から通っていた教習所を1ヶ月半で卒業した。苦手分野に挑戦するのは久しぶりだったのですごく緊張した。豪雨の中、高速教習行ったりして、ほんとに死ぬかと思った……死ななかった。
・デザイナーさんの進行管理等のお手伝いを始めた。わりと合ってるかもしれないなと思っている。自分を信用していないのでどんどん自動化とかしていけたらいいな。
・それに関連してnoteで記事を2本書いた。こういうハウツー系の記事を書いたのは数年ぶりで、違う頭を使う感じがあってよかった。
・ある企業のライターに応募した。が、体調悪い期間が続いてしまって選考課題を提出できなくて悔しかった。すごく丁寧に対応していただけたので好き度が上がった。
・体調悪い期間、思ったより短くてすんだのは実家にいるおかげもあると思う。けど久しぶりに結構つらかったな……
・7月以降のことについてあるお誘いをいただいた。ちょうど教習所分手が空くところだったので、うまいこと請けられたらな〜と思っている。
2018年5月
今月は、新しく読み始めたものは特になかった。
・5月の頭に帰省した。そのときに持ってきた本は『暇と退屈の倫理学』『生きがいについて』。
・車の免許を取りに行くことにした。平日はほぼ毎日教習所で車を運転したり、学科の勉強をしたりしている。わたしは目を使うのがあまり得意じゃないというか、ぼーっとしていてあんまり物事を見ていなかったんだなあと実感した。もともと聴覚のほうが優位だなあと感じてはいたんだけど、車の運転では目をたくさん使うのですごく疲れる。脳のあまり使ってこなかった部分が処理に戸惑っているのを感じる。
・車の運転をしている人は、みんなこうやって狭い場所で練習して、それから初心者マークをつけて道路へ出てきたのだと思うとちょっと面白い。そしてその度胸・記憶力・注意力とかを尊敬する。わたしは教習所に通うだけで、何度も緊張でおなかを壊している。不安がりなのになんでこんなところへ来てしまったんだろう……と、最初の数日はものすごく後悔した。だけど、日が経つにつれて、恐怖と、この大きなものを動かせることへの高揚感が混じるようになってきた。このままうまく乗れるようになるとよい。
・上記の文を書いてから1週間ほど経ったが、車を動かすことの恐怖が増している気がする。スピードが出るもの動かすのこわい!
・さらに上記の分から1週間ほど経った。今日の教官はとてもおしゃべりで、50分しゃべりっぱなしだった。そしたらなんか、うまいこと気を抜けて運転できたのか、いつもほどぐったりしなかった……うまくいかない原因は緊張しすぎ・集中しすぎなところにあったのかもしれない。集中できなくて大変に感じていると思っていたのに、逆だったのか……?自分のことは自分でもまだよくわからない。
2018年4月
再読。このべたつかない感じが好きでちょこちょこ再読している。
これも再読。元気がなかったのでひたすら小説を読んでいた……。
三鷹のマルシェ帰りによった本屋で購入。女〜〜〜〜!
三鷹のマルシェで購入。『るきさん』のリアリティが増した現代版……というふうに感じた。
お世話になった先生が一部書いているので持ってたのを、超超久しぶりに引っ張り出してきて読んだ。(詳しくはこのエントリで)
これも三鷹のマルシェで購入。文章の軽さが好きな感じだった。数十年の日記みたいな雰囲気があってよかった。
・4月はほとんど働いてなくて、いろいろ考える時間がたくさんあった。決めたかった複数の物事は決まらないまま。このまま困っててもどうしようもないなと思って、一旦実家に帰って自動車の免許とることにしよ、となった。
・地元にいると気軽に人と会いづらくて元気がなくなるので、みなさん各種通話などしましょう、よろしくお願いします!
白
目が覚めると早朝だった。わたしは真っ白くてふかふかなベッドで眠っていたらしい。知らない部屋。壁も白くて清潔だが、病院みたいな無愛想さはひとつも感じられない。常に誰かが生活している、きちんと呼吸をしている部屋だと思った。
久しぶりにこんなふうに朝日を浴びた。今絵を描くなら、日光は白か黄色で塗るだろう。こんこんと眠る日々が続いていて、少し西へ傾いた太陽しか見ていなかったので、その明るさに驚く。幼稚園のときに太陽を黄色で塗っていた子たちは、みんな朝に強かったのかもしれない。
「起きましたか」と声をかけられる。知らない人。白いパジャマを着ている。ペットボトルの水を渡される。未開封だった。飲む。飲みなれない味がしたのでおそらく硬水。
昨日はいったいどうしていたんだっけ。記憶がない。ここはほんとに現世なんだろうか。やたら白いし、空気が綺麗だ。酸素が多い気がする。
「昨日はよく眠れましたか」はい。「おなかはすいてませんか」すいてないみたいです。「本当に?」もう長いことおなかがすかないんです。「じゃあ、胃は空いてるんでしょう」そうですね、胃は空いてると思います。「おかゆとホットケーキだったら、どっちが好きですか?」ホットケーキが。「じゃあ、そうしましょう」
米の形が崩れているのが嫌で、粥はあまり好きじゃないんだけど、こういうとき、何日もろくに食べてなさそうなときって、粥をすすめるもんじゃないんだろうか。よくわからないけど大人しく待つ。
その人は紺のエプロンをする。白い冷蔵庫から、白いボウルに、卵と牛乳を移動させる。泡立て器で混ぜる。白い粉を計って入れる。マヨネーズを、えっ。
「入れるとね、ふわっとするらしいんですよ」伝聞ですか?「そうですね」実験台ですか?「そうなってくれますか?」
フライパンを熱する。白いふきんで冷ます。もう一度コンロに戻して、生地を流し入れる。ちょっと待って、裏返して、また焼く。甘くてあたたかい匂いがする。
「1枚焼けたらね、すぐ食べていいですからね」はあ、ありがとうございます。
匂いを嗅ぎながらベッドに埋もれて目を閉じる。土曜日の遅い朝を思い出す。昔母が焼いてくれたっけな。丸くて大きいの。両手で持って、かじった。もうホットケーキは自分で焼くしかないと思ってた。
「焼けましたよ」
ベッドから這い出す。自分も同じ白いパジャマを着ていた。席に着く。他人が自分のために用意してくれた席。ナイフもフォークも使わずに両手で掴む。かじる。さくり。ふわり。甘い。顔を湿らす蒸気。白い。その向こうで微笑む人。
目が覚める。日はもう高い。「起きましたか」と自分に言う。いつも通りの部屋。なぜか満たされた気持ちでいる。おなかがすいた。ホットケーキの材料を買いに出かける。
我々はどこまで考えればよいのか──滝川裕英編『問いかける法哲学』
最近、なにかを読んで考える、みたいなことが著しく少なくなっていて、考え方を忘れてしまったのでは……と思い、この本を引っ張り出してきて読んだ。
当書は、法哲学を学ぶうえで「いきなり実践」的アプローチをとっている。これは、賛否が分かれる法哲学の問いにいきなり取り組み、その中で法哲学の基礎的な概念や考え方がどのように役立つか確認しつつ、少しずつ身につけていくというやり方である。
そして、当書は法哲学の演習書であり、副読本であり、入門書であると位置付けられている。想定読者は法学部生や法科大学院生とされているけど、ちょこちょこ調べつつ読めばそれ以外の人でもそれほど問題なく読めると思う(理解の深さは異なるかもしれないが)。
わたしが今回読んだのは「女性専用車両は男性差別か?」の項だったけど、他にも「自分の臓器を売ることは許されるべきか?」「犯罪者を薬物で改善してよいか?」「年金は世代間の助け合いであるべきか?」「国家は廃止すべきか?」など目次だけでもおもしろいのでぜひここから見てみてください。
「06 女性専用車両は男性差別か?」は、導入で筆者の経験の話、そして「差別」の定義をしたのちに、法律家が差別を取扱う際の視点を明らかにする→次に、差別に関わる法哲学上の論点とその変化などを説明する→最後に、これらを踏まえて、女性専用車両が男性差別であるかを考えるための道筋を示す、という流れになっている。
これが講義みたいですごくわかりやすかった。わたしはまずテーマだけを見て自分なりに考え(もちろん法哲学的視点などひとつもない)、それをメモし、法哲学上の論点まで読んでもう一度考えてみた。そのあとに残りの部分を読んでみる、というやり方で読んで、講義を再現するようなつもりでやった(ら3時間が経っていた)。
この章では、「こういう論じ方が可能だよね」という道筋を示すものの、結論は出していない。むしろ考慮すべき要素がたくさん見つかるようになってどうしたものか……となってしまった。
そこで思ったのが、我々はどこまで考えるべきなのか?ということ。つまりこの問題って、法哲学的視点……というか、法律家から考えてもこれだけ押さえるべきところがある問題なわけだ。そのような問題を、我々一般人はどのように、どこまで考えればいいのだろうか?
いろいろ考えてみたけど、わたしたち生活者は、こういう視点があるということも学んだり学ばなかったりしたうえで、こう思うんですけどどうですか、って話を、ときに専門家を交えてしていくことしかできないんじゃないかと思った。だって法哲学だけでこれなんだから、様々な専門家の視点を広く得ようとするのは、現実的に考えてかなり難しいと思う。そりゃ学んだほうが、より確からしいものを自分の中に取り入れられるという点で、得だなあとは思うけど。
なんか前にも似たような結論に達したことがある気がするんだけど、専門家への敬意をもって、わたしたちはわたしたちなりに考えて、こう思うんですけどどうですかねって、問われて問うての繰り返しをするのがよいのかな〜って思いました。
専門家が専門家の目線で見てくれるだろう、我々は生活者なのだから生活者の目線でよいのではないか、それが役割ではないのか、もちろん学習する生活者というのがよいんでしょうが……と思った話でした。
以下、関連ツイート
頭使わなすぎてやばい!!と思い、瀧川裕英編『問いかける法哲学』引っ張り出してきて読んでいる 最初にテーマについて考えてメモしてから読んで、もう1回考えてみるみたいなやり方するとセルフで講義受けてるみたいになって楽しい…… pic.twitter.com/Ydhpow58kR
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
「女性専用車両は男性差別か?」の項を読んでます 他にも「自分の臓器を売ることは許されるべきか?」「犯罪者を薬物で改善してよいか?」「年金は世代間の助け合いであるべきか?」「国家は廃止すべきか?」など目次だけでおもしろい 装丁かわいいし……
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
問いかける法哲学 https://t.co/KxktP9sYN5
わたしは法学徒じゃないから思うのかもしれないけど、法の考え方ってわかりやすくて好きだな いくつかの原理原則があってそれにどう当てはまるのか、その範囲はどこまでかなどを考えるのは楽しい
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
わかりやすいとか言うとナメてるように聞こえるかもしれないけど、一定のルールにのっとって考えてみるというのはかなり自分に合ってると思う、という意味です
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
3時間弱考えてこの項を読んだ結果なんですけど、こういう視点があるよというのをなんとなく知りつつも、我々一般人は、とにかくこう思いますけどどうですか?というのをときに専門家を交えて話すしかないのでは、と思いました!!!
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
結局わたしたちはいち生活者であるから、おかしいと思ったことをおかしいと言い、改善を求めるというのをやるのが役割なのでは、みたいなことを……思った……だって妥当性とか判断するの非常に難しくない!?
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
こう思ったのは、この項が「こういう論じ方が可能だよね」という道筋を示すものの結論は出していなかったからで、それだけ複雑なものを日常で全部考慮して論じてくのは難しいじゃないですか、そしたらやっぱ各々の立場で思うことを言うしかないのかなって思ったんだよね~
— ハルカ (@sharuka0) 2018年4月11日
2018年3月
3月のまとめです。
飛ばし読みした。わたしが興味あるのって都市じゃなくて都市に興味がある人だなと気づいた。
つらかった日に泣きながら友人と話していたら友人がその場で買って贈ってくれた。読み途中。
友人が貸してくれた、めちゃくちゃいい……。るきさんの自由さは周りをも自由にする自由さだと思った。いいなー……。友人えっちゃんとの関係性も非常によくて、ふらっとお互いに行き来できる関係。こういう友人のいる生活は幸福だなと思う。氷室冴子さんによる解説も、短いながら『るきさん』の世界をすごくよく表していていいなあと思いました。自分でも買おうかな。
買って読み進めている。國分先生、一人称俺なんですね……(よい)。
タイムラインで何度か見ていて気になっていたので。バイトの面接を受けた帰りに、書店でぱらぱら見たら思っていたよりグッときてしまい、買った。大丈夫になりたい。
- 作者: 伊藤紺,生湯葉シホ,こいぬまめぐみ,いつか床子,mao nakazawa,菅原沙妃,西平麻依,渡邉ひろ子,エヒラナナエ,ery,西川タイジ,近成カズキ
- 出版社/メーカー: 日販アイ・ピー・エス
- 発売日: 2018/03/09
- メディア: 単行本
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知っている人が2名寄稿していたので買った、横書きでびっくりした。思っていたのとはちょっと違っていたけど、新しく好きだなと思う文章を書く人を見つけられてよかった。まだ読み途中。
書評部分以外読み終えた。この著者の音楽に関する表現がほんとうに好きなんだけど、同じように感じている読者がいるんだなーと思った。この本に関連したnoteも書いた。
・3月は、読みかけの本を読み終えたり、新しく本を仕入れたりした。退屈になることがこわかったので、それに備えた本選びをしてみた。結果わりと退屈にならずにすんだので正解だった。
・暇つぶしのひとつとして、つくりばなしというカテゴリで事実ではない話を書き始めた。これについて、小説を書いている友人が面白いと言ってくれたのがめちゃくちゃ嬉しかった。話を作るという形での感情の昇華があるんだなーとわかったので今後もやってみたい。
・note使ってる人と話して、あー使ってみたいなと思ったので、久しぶりにnoteを使い始めた。日記を書いたりしている。
・先月「3月中にバイト決めたい」などと言っていたのですが決まりませんでした、まあのんびりやる。今年度いっぱいでケリつけようと思ってたことは全部終わらなかったんだけど仕方ないですね。持ち越すぞ。
記憶の濃度
記憶の濃度の話をしたい。
ひどく調子の悪かったとき、わたしは文房具の陳列棚の前で立ち尽くしたことがある。何を買うかもあらかた決まっていたのに、そしてそのペンが並んでいる棚の前に立ったのに、「たくさん並んでいるものの中から特定のペンを選ぶ」という行為ができず、急に「わたしはここで何をすればいいんだっけ」「それはどうやったら達成できるんだっけ」と、ぽかーんとしてしまったのであった。そのあと、こんな簡単なことができなくなっていることにぞっとして、帰宅してから少し泣いた。
調子が悪かったときに起きた様々な不具合の記憶は強烈で、なかなか忘れられず、同じようなことをするときにはきまって緊張が訪れていた。今でこそ落ち着いたものの、公共交通機関を利用するときにも不安だったし、人と簡単な約束をかわすのにも、守れるかわからず胃が痛くなった。
忘れずにいたいのは、それら嫌な記憶の濃度は下げられるということだ。
ある行為を何度も行えば、分母が増える。いくら強烈であったとしても、一度の失敗は1でしかないので、どんどん確率的には小さくなっていく。やり続けることで、失敗した思い出の濃度が下がっていく。そういう話がカウンセリングの中でなされた。
濃度が高いうちは怖いけど、それに負けず、あるいはときには負けつつも、繰り返して嫌な記憶を薄めていく。そういう作業が必要なんだと思った。
嫌なこと以外についてもこの濃度の話はできてしまうから、わたしはできる限り多くの1回を書き残したいと思っている。また次にその行為をすることをためらわないためにも。